ISBN:4103534141 単行本 村上春樹 新潮社 ¥1,680
こういう結末を多少は予測していたものの、実際に読みきってみてあまりの尻すぼみ具合に憮然として放り出してはや数週間、もはや私の中では風化しているのだけど、感想文が上下巻と揃っていないのも片手落ちな感じよなあ、と思い半分やっつけ仕事風味でアップします。
作中人物が会話においてやたらカジュアルに「メタファー」「メタフォリカル」という単語を頻出させるのは、何だかもう勝手にやってくれとしか言えないのだけど、その言い方を借りるなら「メタフォリカルな意味においての母」、つまり50代の女性「佐伯さん」との肉体関係をこの15歳の少年が持つことは上巻の段階から示唆されてはいた。別にその年齢差やあまりにご都合主義的な経緯自体がおかしいとは言わないけど、もっと問題なのはそういう行為の上に(自分達の行為がまるで形而上的ななにかであると言わんばかりに)スマートで取り澄ました解釈を、しかも自らの手で無理矢理かぶせようとしている印象があって、その行為と解釈の距離のあまりの噛み合わなさに引っかかったということ。
それにしてももう一つの要素である「姉」との関係、上巻に登場した「さくら」(主人公が四国行きの高速バスの中で出会う女性)が「姉」なわけだな、とは誰でも容易に予想がつくのだけど、こちらに関しては物凄く辻褄合わせ的な苦しまぎれの描かれ方で、「母」のエピソードに比べたらオマケ程度の熱量しか感じられない。
そういう場面を抜き出しても、張りまくってきた伏線をどう纏め上げるのか、という点でこの小説には手抜かりが多すぎる。紙幅・タイムリミットに追われながら残り50ページほどの間で慌しく決着をつけたという感が否めない読後感。私はこの小説をファンタジーとして読んでしまった、とはいえ(そうとしか読めない)物語の舞台を現実世界に設定している以上はあまりにぶっとんだ現象や現実に起こりえない展開は混ぜ込んだらいけないと思うのよね。ネタバレになるけど上巻の、東京でナカタさんが殺した人物の血(と思われる血)が当のナカタさんには一滴も付かずに四国にいる主人公のシャツに付いていたというシーン、あれをもって「メタファーとしての父殺し」という条件をすまし顔でクリアしてみせているのが無理ありすぎる。それどんなマジック?っていう。「父・母・姉」を重要なファクターとして据えた以上はそれなりに一本筋の通ったものとしてそれらを編み上げてほしいんだけど…。
それにナカタさんのパートは面白くてどんどん展開を見せるのに反して、主人公に関しては同じ地点(物理的にも精神的な意味においても)にとどまり、ただただ内省を繰り返しているという釣り合いの悪さも少し気になった。クラシックについて語られる部分は著者の個人的な思い入れが込められているのか饒舌で熱が入っているのが伺え、なのにその他の部分は好みのモチーフのサンプリングにつぐサンプリング…という。
あと、主人公と図書館員の「大島さん」との会話!(単行本p186〜)「佐伯さん」が生き続ける意志をうしない、自殺するのではなく静かに死につつあるのがわかる、と話されているのだけど、なんてセンチメンタルに過ぎる死だこと、としか思えない。私このくだりがとても嫌いです。この著者は死をそんな風に、思春期の少女並みのロマンチックさをもってしか書けない人なの?
思うにこの小説の読者の言う「癒された」とは、終わりの方の場面だけを拾い「現実世界に何もなくとも生きろ」というメッセージを受け取っての感想なのだろうけど…このメッセージがまた、前置きがぐたぐたなだけに説得力ないんだよなあ。こんな小説で癒される程度のものなら、一生ぬくぬくと癒されていればいいさ。と思うよ。
こういう結末を多少は予測していたものの、実際に読みきってみてあまりの尻すぼみ具合に憮然として放り出してはや数週間、もはや私の中では風化しているのだけど、感想文が上下巻と揃っていないのも片手落ちな感じよなあ、と思い半分やっつけ仕事風味でアップします。
作中人物が会話においてやたらカジュアルに「メタファー」「メタフォリカル」という単語を頻出させるのは、何だかもう勝手にやってくれとしか言えないのだけど、その言い方を借りるなら「メタフォリカルな意味においての母」、つまり50代の女性「佐伯さん」との肉体関係をこの15歳の少年が持つことは上巻の段階から示唆されてはいた。別にその年齢差やあまりにご都合主義的な経緯自体がおかしいとは言わないけど、もっと問題なのはそういう行為の上に(自分達の行為がまるで形而上的ななにかであると言わんばかりに)スマートで取り澄ました解釈を、しかも自らの手で無理矢理かぶせようとしている印象があって、その行為と解釈の距離のあまりの噛み合わなさに引っかかったということ。
それにしてももう一つの要素である「姉」との関係、上巻に登場した「さくら」(主人公が四国行きの高速バスの中で出会う女性)が「姉」なわけだな、とは誰でも容易に予想がつくのだけど、こちらに関しては物凄く辻褄合わせ的な苦しまぎれの描かれ方で、「母」のエピソードに比べたらオマケ程度の熱量しか感じられない。
そういう場面を抜き出しても、張りまくってきた伏線をどう纏め上げるのか、という点でこの小説には手抜かりが多すぎる。紙幅・タイムリミットに追われながら残り50ページほどの間で慌しく決着をつけたという感が否めない読後感。私はこの小説をファンタジーとして読んでしまった、とはいえ(そうとしか読めない)物語の舞台を現実世界に設定している以上はあまりにぶっとんだ現象や現実に起こりえない展開は混ぜ込んだらいけないと思うのよね。ネタバレになるけど上巻の、東京でナカタさんが殺した人物の血(と思われる血)が当のナカタさんには一滴も付かずに四国にいる主人公のシャツに付いていたというシーン、あれをもって「メタファーとしての父殺し」という条件をすまし顔でクリアしてみせているのが無理ありすぎる。それどんなマジック?っていう。「父・母・姉」を重要なファクターとして据えた以上はそれなりに一本筋の通ったものとしてそれらを編み上げてほしいんだけど…。
それにナカタさんのパートは面白くてどんどん展開を見せるのに反して、主人公に関しては同じ地点(物理的にも精神的な意味においても)にとどまり、ただただ内省を繰り返しているという釣り合いの悪さも少し気になった。クラシックについて語られる部分は著者の個人的な思い入れが込められているのか饒舌で熱が入っているのが伺え、なのにその他の部分は好みのモチーフのサンプリングにつぐサンプリング…という。
あと、主人公と図書館員の「大島さん」との会話!(単行本p186〜)「佐伯さん」が生き続ける意志をうしない、自殺するのではなく静かに死につつあるのがわかる、と話されているのだけど、なんてセンチメンタルに過ぎる死だこと、としか思えない。私このくだりがとても嫌いです。この著者は死をそんな風に、思春期の少女並みのロマンチックさをもってしか書けない人なの?
思うにこの小説の読者の言う「癒された」とは、終わりの方の場面だけを拾い「現実世界に何もなくとも生きろ」というメッセージを受け取っての感想なのだろうけど…このメッセージがまた、前置きがぐたぐたなだけに説得力ないんだよなあ。こんな小説で癒される程度のものなら、一生ぬくぬくと癒されていればいいさ。と思うよ。
ISBN:4022574844 単行本 金井美恵子 朝日新聞社 ¥1,575
これを読みながら、職場の先輩の「お前の現状、フリーターやん」という言葉を思い出して、うわあ。身も蓋もないですね。と傷付く、というほどの形容は自らしたくないものの大きくたじろいだのは確かだった。言われても仕方がないとはいえ人から指摘されたくない部分だったから。ちなみにその先輩は先日私に「ああ、お前の心の病気がうつったわ」とも言ったわけであり、私はいじられキャラという担当をいつの間にか割り振られている以上それが時に行き過ぎ乱暴な言葉が飛んでくるのは仕方がないにしても、言っていい事悪い事がありますよと私が怒るのはどことなく御法度である雰囲気を同時に受け取っている以上はその場の空気に乗っかってへらへら笑っているしかなかったのだった(が、「ひでー、あはは」と咄嗟に返す事もできなかった)。
どうでもいいんだけど。被害者を気取るのも下らなくなって(だって言われて当たり前の事ばかり)、色んな事がどんどんどうでもよくなって無感動さに馴らされていっている。そういえば私にはかつてこの小説のようにジャーゴン(という言い方は良くないかな)で会話できる友人を持った事がないし今後もないだろう事はある種のコンプレックスになっていて、といってすべての物事や人達に「けっ!」と背を向け距離を置くほどの潔さも優位性も持てずに、つい僅かな羨望の入り混じった冷ややかな視線を送ってしまうのだが。まあこれもどうでもいいですね。
いや、小説自体は面白かったですがどう感想を書けばいいか困りました。こういう長いセンテンスと、登場人物の成長やら変化やらのわざとらしいテーマが掲げられていないところが好きです。
これを読みながら、職場の先輩の「お前の現状、フリーターやん」という言葉を思い出して、うわあ。身も蓋もないですね。と傷付く、というほどの形容は自らしたくないものの大きくたじろいだのは確かだった。言われても仕方がないとはいえ人から指摘されたくない部分だったから。ちなみにその先輩は先日私に「ああ、お前の心の病気がうつったわ」とも言ったわけであり、私はいじられキャラという担当をいつの間にか割り振られている以上それが時に行き過ぎ乱暴な言葉が飛んでくるのは仕方がないにしても、言っていい事悪い事がありますよと私が怒るのはどことなく御法度である雰囲気を同時に受け取っている以上はその場の空気に乗っかってへらへら笑っているしかなかったのだった(が、「ひでー、あはは」と咄嗟に返す事もできなかった)。
どうでもいいんだけど。被害者を気取るのも下らなくなって(だって言われて当たり前の事ばかり)、色んな事がどんどんどうでもよくなって無感動さに馴らされていっている。そういえば私にはかつてこの小説のようにジャーゴン(という言い方は良くないかな)で会話できる友人を持った事がないし今後もないだろう事はある種のコンプレックスになっていて、といってすべての物事や人達に「けっ!」と背を向け距離を置くほどの潔さも優位性も持てずに、つい僅かな羨望の入り混じった冷ややかな視線を送ってしまうのだが。まあこれもどうでもいいですね。
いや、小説自体は面白かったですがどう感想を書けばいいか困りました。こういう長いセンテンスと、登場人物の成長やら変化やらのわざとらしいテーマが掲げられていないところが好きです。
空きISBN:4103534133 単行本 村上春樹 新潮社 ¥1,680
やっと上巻読了。普段村上春樹の熱心な読者でもない人間の繰言として読んで下さいと言い訳をしたところで以下ずらずらと感想。前半、特に知り合って間もない女性が「頼んでもいないのに」主人公の少年の性処理を手伝ってくれるくだりには「またかよ」とうんざりしたけれど、後半は割に面白く読めました。主人公よりは老人の「ナカタさん」の登場する部分の方がまだ素直に読めたので。だから上巻を読んでひとまず感じたのは、この少年を主人公として行動させるには800ページ超の長編は分不相応だったのでは?という疑問がせりあがってきたという事。下巻は恐らく『オイディプス王』の筋書きをなぞったようなストーリー展開というかモチーフが頻出する事と予測されるので、それらをなぞり終わった最後の最後に主人公がどのような着地の仕方をするのかに期待を寄せたいところです。
どうでもいい事から突っ込むとすると、私は村上春樹作品に書かれる少年・青年の性欲というものに、いつも何となく気持が悪いというかもにょるものをむずむずと感じ続けてきたのだけど、上に触れたように上巻にもそういうシーンが登場するわけで。これだけ複数の作品にわたって執拗に書かれると、作者本人の幻想やファンタジーを投影しているのかなと私などは下世話な推測をしてしまいげっとなる。
ところで今作品の主人公は「コンビニエンス・ストア」「レイディオヘッド」(英語圏ではこちらが正式な発音らしいが)「ディジタル・ウォッチ」などという勿体廻った言い回しをする者として設定されているのだけど、他の登場人物は(これが意図的な書き分けかはわからないが)普通に「コンビニ」と言っているわけで、この少年には手垢のついた俗称はふさわしくないとの判断が作者によって下されたのでは?とそれらの単語から私は仮定してみた。で、冒頭に書いたくだりや少年が自らの欲求に思いを巡らせる場面などについても同じ流れで考えるとすると、清潔で聡明な、自らの欲求に対しても聡明で思想的な注釈をつけずにはおれない少年は、俗人の動物的な欲望とは一線を画した、何か特別なものとして自らの欲求を異化したいような心の動きがあるのでは?と思えてならないのです。大体、何においても清潔で思索的・理知的に対処する事のできる少年(しかもたった15歳の)なんてものはファンタジーや腐女子と呼ばれる人達の理想の中にしかいないよ。そんな風に、村上春樹がたびたび書く性欲というものは、整って見せているだけにいびつで無理がある。
ああ、くだらない事ばっかり書いてしまった。「二度と戻らない旅に出た。」だなんていう気取りがしっくりきている分には15歳という年齢の設定は悪くは無いけど、他の部分で(上に書いた問題もそうだけど)その年齢に不自然さを感じる事がしばしば。つまり好みのモチーフをこれでもかと手当たり次第に鍋につっこんだ結果、整合性のない不味いごった煮のようなものが出来上がってしまった感がある。作者自身の心的世界にとって心地よいという前提ありきで全てのキーワード・記号・モチーフが選び取られ羅列された、というイメージが上巻に関してはある。これが受けたというのはわからなくはない。徹頭徹尾記号的な世界では自分を真の意味で脅かすものも、手軽なカテゴライズの効かない(自分では管理できない)まったくの異者もあらわれないだろうから。でもそういう異者に溢れているのが現実世界であるわけで、この小説に癒しを覚えた人達はそこから逃避したい人達だったのかもしれない。
あと、主人公が初対面の好ましい女性を「自分の本当の母(姉)であったら良かったのに、いや、彼らが僕の母(姉)であってはならないという理由はどこにもない」と思いを巡らす場面が出てくるたびにハアー?と呆れに近いものを感じたんですが。少年は幼い頃に母や姉と別れているので、「理論的に言うなら、ほんの少しは可能性がある」などと言うのには目を瞑らんでもないけど、実際にはそれは少年の甘ったるい想像でしかないわけで…何だろうこういう言い回し。思い出のない少年の寂しさから来る、単なる無邪気な思慕というのとはまた違う。あくまでメタファーとしてならアリだけど、何だかひたすらもにょってしまいます。
何だろう…互いが全くの他者ではなく深層心理においてシンクロしてると言いたいのかな。他にもツッコミどころはあるけれどともかくは下巻に移ります。でもまあ、多くの人が何かしら言及せずにはおれないものをもつ小説って、それだけで存在意義がある気もします。
やっと上巻読了。普段村上春樹の熱心な読者でもない人間の繰言として読んで下さいと言い訳をしたところで以下ずらずらと感想。前半、特に知り合って間もない女性が「頼んでもいないのに」主人公の少年の性処理を手伝ってくれるくだりには「またかよ」とうんざりしたけれど、後半は割に面白く読めました。主人公よりは老人の「ナカタさん」の登場する部分の方がまだ素直に読めたので。だから上巻を読んでひとまず感じたのは、この少年を主人公として行動させるには800ページ超の長編は分不相応だったのでは?という疑問がせりあがってきたという事。下巻は恐らく『オイディプス王』の筋書きをなぞったようなストーリー展開というかモチーフが頻出する事と予測されるので、それらをなぞり終わった最後の最後に主人公がどのような着地の仕方をするのかに期待を寄せたいところです。
どうでもいい事から突っ込むとすると、私は村上春樹作品に書かれる少年・青年の性欲というものに、いつも何となく気持が悪いというかもにょるものをむずむずと感じ続けてきたのだけど、上に触れたように上巻にもそういうシーンが登場するわけで。これだけ複数の作品にわたって執拗に書かれると、作者本人の幻想やファンタジーを投影しているのかなと私などは下世話な推測をしてしまいげっとなる。
ところで今作品の主人公は「コンビニエンス・ストア」「レイディオヘッド」(英語圏ではこちらが正式な発音らしいが)「ディジタル・ウォッチ」などという勿体廻った言い回しをする者として設定されているのだけど、他の登場人物は(これが意図的な書き分けかはわからないが)普通に「コンビニ」と言っているわけで、この少年には手垢のついた俗称はふさわしくないとの判断が作者によって下されたのでは?とそれらの単語から私は仮定してみた。で、冒頭に書いたくだりや少年が自らの欲求に思いを巡らせる場面などについても同じ流れで考えるとすると、清潔で聡明な、自らの欲求に対しても聡明で思想的な注釈をつけずにはおれない少年は、俗人の動物的な欲望とは一線を画した、何か特別なものとして自らの欲求を異化したいような心の動きがあるのでは?と思えてならないのです。大体、何においても清潔で思索的・理知的に対処する事のできる少年(しかもたった15歳の)なんてものはファンタジーや腐女子と呼ばれる人達の理想の中にしかいないよ。そんな風に、村上春樹がたびたび書く性欲というものは、整って見せているだけにいびつで無理がある。
ああ、くだらない事ばっかり書いてしまった。「二度と戻らない旅に出た。」だなんていう気取りがしっくりきている分には15歳という年齢の設定は悪くは無いけど、他の部分で(上に書いた問題もそうだけど)その年齢に不自然さを感じる事がしばしば。つまり好みのモチーフをこれでもかと手当たり次第に鍋につっこんだ結果、整合性のない不味いごった煮のようなものが出来上がってしまった感がある。作者自身の心的世界にとって心地よいという前提ありきで全てのキーワード・記号・モチーフが選び取られ羅列された、というイメージが上巻に関してはある。これが受けたというのはわからなくはない。徹頭徹尾記号的な世界では自分を真の意味で脅かすものも、手軽なカテゴライズの効かない(自分では管理できない)まったくの異者もあらわれないだろうから。でもそういう異者に溢れているのが現実世界であるわけで、この小説に癒しを覚えた人達はそこから逃避したい人達だったのかもしれない。
あと、主人公が初対面の好ましい女性を「自分の本当の母(姉)であったら良かったのに、いや、彼らが僕の母(姉)であってはならないという理由はどこにもない」と思いを巡らす場面が出てくるたびにハアー?と呆れに近いものを感じたんですが。少年は幼い頃に母や姉と別れているので、「理論的に言うなら、ほんの少しは可能性がある」などと言うのには目を瞑らんでもないけど、実際にはそれは少年の甘ったるい想像でしかないわけで…何だろうこういう言い回し。思い出のない少年の寂しさから来る、単なる無邪気な思慕というのとはまた違う。あくまでメタファーとしてならアリだけど、何だかひたすらもにょってしまいます。
何だろう…互いが全くの他者ではなく深層心理においてシンクロしてると言いたいのかな。他にもツッコミどころはあるけれどともかくは下巻に移ります。でもまあ、多くの人が何かしら言及せずにはおれないものをもつ小説って、それだけで存在意義がある気もします。
デトロイト・メタル・シティ 1 (1)
2006年12月6日 読書
ISBN:4592143515 コミック 若杉公徳 白泉社 ¥530
普段はスウェディッシュポップが好きな青年がメイクをすると人が変わりデスメタルバンドのギターボーカルとしてライブを行う…という設定を出発点にしたギャグ漫画。こういう使用前/使用後みたいなギャップ系の笑いは珍しくはないように思うが、結構売れてるみたいだし音楽が絡んでいるので(でも『BECK』には全く惹かれないのは何故だろうと帯を見て思った)手に取ってみた…で、確かに面白いけど、デスメタルだけに画面は派手ではあるけどギャグの中身は予想通りオーソドックスで、ちょこちょこツボに入るギャグもあるものの(「公開自殺」とかかなり笑った)次巻を買うかはちょっと迷うところ。シンプルな反復系の笑いなので(漫才などでも、同じパターンの反復というのも熟練の域に達すればかえって味があって面白いんですけど)私などは途中で飽きてしまう。
何で物足りないのだろうと考えてみたけれど、主人公のパーソナルな部分の描写(買い物に行ったりだとかの普段の場面)にも音楽的な遍歴にもデスメタル(というある種の記号?性)につながる要素がまったく示唆されていないので、どういうわけで豹変するのか?に説得力や必然性がないんだよね。誰にでもある衝動的な怒りや攻撃性→デスメタルっていうだけなのかなあ。つまり「ギャップもの」「変身もの」の持つ面白さ、というだけで描かれている感じがして、それが引っかかる。いや、そんな風な白けた読み方をするのはこの漫画の作法からは外れているという自覚はありますけど一応。
岡田あーみんだとか最近では「ハトのおよめさん」だとかの、躁病的な壊れたテンションのギャグばかり好んでいるので、普通の普遍的なギャグが食い足りなくなっているんだと思います私。
普段はスウェディッシュポップが好きな青年がメイクをすると人が変わりデスメタルバンドのギターボーカルとしてライブを行う…という設定を出発点にしたギャグ漫画。こういう使用前/使用後みたいなギャップ系の笑いは珍しくはないように思うが、結構売れてるみたいだし音楽が絡んでいるので(でも『BECK』には全く惹かれないのは何故だろうと帯を見て思った)手に取ってみた…で、確かに面白いけど、デスメタルだけに画面は派手ではあるけどギャグの中身は予想通りオーソドックスで、ちょこちょこツボに入るギャグもあるものの(「公開自殺」とかかなり笑った)次巻を買うかはちょっと迷うところ。シンプルな反復系の笑いなので(漫才などでも、同じパターンの反復というのも熟練の域に達すればかえって味があって面白いんですけど)私などは途中で飽きてしまう。
何で物足りないのだろうと考えてみたけれど、主人公のパーソナルな部分の描写(買い物に行ったりだとかの普段の場面)にも音楽的な遍歴にもデスメタル(というある種の記号?性)につながる要素がまったく示唆されていないので、どういうわけで豹変するのか?に説得力や必然性がないんだよね。誰にでもある衝動的な怒りや攻撃性→デスメタルっていうだけなのかなあ。つまり「ギャップもの」「変身もの」の持つ面白さ、というだけで描かれている感じがして、それが引っかかる。いや、そんな風な白けた読み方をするのはこの漫画の作法からは外れているという自覚はありますけど一応。
岡田あーみんだとか最近では「ハトのおよめさん」だとかの、躁病的な壊れたテンションのギャグばかり好んでいるので、普通の普遍的なギャグが食い足りなくなっているんだと思います私。
赤目四十八瀧心中未遂
2006年11月10日 読書
ISBN:4167654016 文庫 車谷長吉 文藝春秋 ¥470
赤目四十八滝って実在するんだ、と気付いて再読したくなる。若干ミーハーなノリで申し訳ないけど一回行ってみたい。そして曽爾高原にも寄ってススキ野原を見たいのだけど、奈良と三重の県境というと結構遠いな。
独特の息詰る感じにびしびし打たれつつも、今回は以下の部分に身につまされるものを覚えた。
(…)山根が来たことは私に何かを感じさせた。折角新聞社へ入りながら、新聞社では花形の編輯局は端から希望せず、催し物の裏方をする部署を望んだような男である。山根に一貫しているのは、己れは暗がりに身をおいて、そこから、日の当る場所にじたばたする人たちを見て生きようという目差しである。同じ目差しで、その後の私を見に来たのだ。こちらが山根のいまについて尋ねても、このたびも「ま、そんなことはいいじゃないですか。」と笑うて、己れのことについてはかけらもしゃべらなかったのも、以前の通りだった。併し一つだけ違っていたことがあった。ただ単に私のいまのざまを見に来ただけではなかった。
山根は「池の底の月を笊で掬え。」と言いに来たのだ。が、それも、つまりそれだけのことだった。この言葉を私に告げることによって、山根が命を失うわけではなかった。そんな言葉が、私の骨身に沁みるわけがなかった。(略)山根が言うたのは、書くことによって私が命を落とすかも知れない言葉を書け、ということではあったのだろうが、併しそう言うことによって山根みずからが命を失うかも知れない言葉ではなかった。そういう謂では、口先だけの言葉であり、併しアヤちゃんの言葉はアヤちゃんの存在それ自体が発語した言葉であって、そうであって見れば私の中に残した衝撃の深さは、私の存在を刺し貫くものだった。
それを思うと、山根は小説を書けとかどうとか言うていたが、そう言われれば言われるほど、むッとするものがあった。誰が小説など書くものか、という反感が込み上げて来る。寧ろ私が小説を書くことに固執しているのは、山根自身の方ではないのか。しかし小説を書くなどということは、別に崇高なことでも何でもない。病死した牛や豚の臓物をさばくのと何変りがあろう。同じ一人の女を愛し、ともに失った二人の男。山根が四年もの間、私を捜して、訪ねて来たというのは、それはそのまま山根の喪失感の深さそのものではないのか。(…)
「池の底の月を笊で掬え。」については引用した部分よりも前に、「尤も小説を書くなんてことは、池の底の月を笊で掬うようなことですけどね。」という「山根」の言葉が出てくる。で、最近私はものごとを自分自身に都合よく引き寄せて消費ばかりしてしまうので、この箇所を読みながら、私は誰かの言葉を渇望する時の気持ちの裏に何かしらの不純な疚しさを自覚していたので、そのことに釘をさされたような心地がしたのだった。それで戒めのために書き写してみた。
会社勤めを唐突に辞め、流れに流れて尼崎の焼き鳥屋に身を寄せた「私」とその「ざまを見に」現れた当時の同僚「山根」とが、焼き鳥屋の女主人「セイ子ねえさん」を交えて話す場面も同じようにインパクトがありました。
**********
言葉だとか書くことだとか。
書くことの積み重ねによって私は、じめじめと惨めったらしい実際の私を、知らず知らずのうちに隠蔽しようとする過程の中にいるのだろうか、なんてことをふと考えてみた。そんな風に「書くこと」について改まって考えてみたりするのは、私には不慣れでそぐわない行いのように思われたりもして。
なんて、何だか大げさだなあ。
赤目四十八滝って実在するんだ、と気付いて再読したくなる。若干ミーハーなノリで申し訳ないけど一回行ってみたい。そして曽爾高原にも寄ってススキ野原を見たいのだけど、奈良と三重の県境というと結構遠いな。
独特の息詰る感じにびしびし打たれつつも、今回は以下の部分に身につまされるものを覚えた。
(…)山根が来たことは私に何かを感じさせた。折角新聞社へ入りながら、新聞社では花形の編輯局は端から希望せず、催し物の裏方をする部署を望んだような男である。山根に一貫しているのは、己れは暗がりに身をおいて、そこから、日の当る場所にじたばたする人たちを見て生きようという目差しである。同じ目差しで、その後の私を見に来たのだ。こちらが山根のいまについて尋ねても、このたびも「ま、そんなことはいいじゃないですか。」と笑うて、己れのことについてはかけらもしゃべらなかったのも、以前の通りだった。併し一つだけ違っていたことがあった。ただ単に私のいまのざまを見に来ただけではなかった。
山根は「池の底の月を笊で掬え。」と言いに来たのだ。が、それも、つまりそれだけのことだった。この言葉を私に告げることによって、山根が命を失うわけではなかった。そんな言葉が、私の骨身に沁みるわけがなかった。(略)山根が言うたのは、書くことによって私が命を落とすかも知れない言葉を書け、ということではあったのだろうが、併しそう言うことによって山根みずからが命を失うかも知れない言葉ではなかった。そういう謂では、口先だけの言葉であり、併しアヤちゃんの言葉はアヤちゃんの存在それ自体が発語した言葉であって、そうであって見れば私の中に残した衝撃の深さは、私の存在を刺し貫くものだった。
それを思うと、山根は小説を書けとかどうとか言うていたが、そう言われれば言われるほど、むッとするものがあった。誰が小説など書くものか、という反感が込み上げて来る。寧ろ私が小説を書くことに固執しているのは、山根自身の方ではないのか。しかし小説を書くなどということは、別に崇高なことでも何でもない。病死した牛や豚の臓物をさばくのと何変りがあろう。同じ一人の女を愛し、ともに失った二人の男。山根が四年もの間、私を捜して、訪ねて来たというのは、それはそのまま山根の喪失感の深さそのものではないのか。(…)
「池の底の月を笊で掬え。」については引用した部分よりも前に、「尤も小説を書くなんてことは、池の底の月を笊で掬うようなことですけどね。」という「山根」の言葉が出てくる。で、最近私はものごとを自分自身に都合よく引き寄せて消費ばかりしてしまうので、この箇所を読みながら、私は誰かの言葉を渇望する時の気持ちの裏に何かしらの不純な疚しさを自覚していたので、そのことに釘をさされたような心地がしたのだった。それで戒めのために書き写してみた。
会社勤めを唐突に辞め、流れに流れて尼崎の焼き鳥屋に身を寄せた「私」とその「ざまを見に」現れた当時の同僚「山根」とが、焼き鳥屋の女主人「セイ子ねえさん」を交えて話す場面も同じようにインパクトがありました。
**********
言葉だとか書くことだとか。
書くことの積み重ねによって私は、じめじめと惨めったらしい実際の私を、知らず知らずのうちに隠蔽しようとする過程の中にいるのだろうか、なんてことをふと考えてみた。そんな風に「書くこと」について改まって考えてみたりするのは、私には不慣れでそぐわない行いのように思われたりもして。
なんて、何だか大げさだなあ。
ISBN:4101006016 文庫 太宰治 新潮社 ¥540
「私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れていた。全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。うしろで誰かが見ているような気がして、私はいつでも何かの態度をつくっていたのである。私のいちいちこまかいしぐさにも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけていたのであるから、私にとって、ふと、とか、われしらず、とかいう動作はあり得なかったのである。橋の上での放心から覚めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行末を考えた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思い出し、また夢想した。そして、おしまいに溜め息ついてこう考えた。えらくなれるかしら。その前後から、私はこころのあせりをはじめていたのである。私は、すべてに就いて満足し切れなかったから、いつも空虚なあがきをしていた。私には十重二十重の仮面がへばりついていたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかったのである。」(「思い出」)
「青年たちはいつでも本気に議論をしない。お互いに相手の神経へふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神経をも大切にかばっている。むだな侮りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きっとそこまで思いつめる。だから、あらそいをいやがるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を数多く知っている。否という一言をさえ、十色くらいにはなんなく使いわけて見せるだろう。議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交しているのだ。そしておしまいに笑って握手しながら、腹のなかでお互いがともにともにこう呟く。低脳め!」
「(…)彼等は、よく笑う。なんでもないことにでも大声たてて笑いこける。笑顔をつくることは、青年たちにとって、息を吐き出すのと同じくらい容易である。いつの頃からそんな習性がつき始めたのであろう。笑わなければ損をする。笑うべきどんな些細な対象をも見落すな。ああ、これこそ貪婪な美食主義のはかない片鱗ではなかろうか。けれども悲しいことには、彼等は腹の底から笑えない。笑いくずれながらも、おのれの姿勢を気にしている。」(「道化の華」)
これらの部分にギクッとさせられはしたけれど、もはや高校生ではなく過剰な自意識からもいくらかは脱したつもりの私は、「道化の華」の太宰の身代わりである大庭葉蔵へ友人の小菅の向ける「観賞」の目線に自分のそれが自然と溶け込めているという変化に今回気付いたのだけど、同時に半分自分を欺いている感じにどうもそわそわする。実際にはよく似た芽を水面下で保ちつつ素知らぬ顔で隠しては、高みの見物の人々にまぎれようとするような、罪深くて悪辣な感じがして。というかこの文章に接して、以前なら「十重二十重の仮面」や「腹の底から笑えない」やらを部分的に引用して自分の文脈の中に勝手に貼り付けて陶酔するやり方を悪びれず行っていたのが、今引っかかったのは自分の動作に自分で注釈をつけたりポーズを気にしたりと、客観的視線が頭の中を常にちらついている部分だったのですが。あ、どっちも結局は同じですか。
って、別に何のオチもなく新解釈に挑むわけでもなく、個人的な後ろめたさをいつものように繰り返すだけの文章になってしまった。だいたいギクッとした「気のする」少年少女なんか掃いて捨てるほどいるのだろうよ。それにしても太宰治は異形の人だなあという思いは強まった。終わりない自己言及の連鎖地獄。印象に残った読書を挙げる時に、太宰治の名前をいっさいの照れや気負いもなく、つまり他の作家の名前を差し出す時と同じような何気ない感じで、その何気なさも意識しないでいい境地に、そのうち達する日もくるのだろうかと思う。
さてご飯を作りにかかります。私にはやっぱり生活の場を選ぶ方が座りがいい。
「私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れていた。全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。うしろで誰かが見ているような気がして、私はいつでも何かの態度をつくっていたのである。私のいちいちこまかいしぐさにも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけていたのであるから、私にとって、ふと、とか、われしらず、とかいう動作はあり得なかったのである。橋の上での放心から覚めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行末を考えた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思い出し、また夢想した。そして、おしまいに溜め息ついてこう考えた。えらくなれるかしら。その前後から、私はこころのあせりをはじめていたのである。私は、すべてに就いて満足し切れなかったから、いつも空虚なあがきをしていた。私には十重二十重の仮面がへばりついていたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかったのである。」(「思い出」)
「青年たちはいつでも本気に議論をしない。お互いに相手の神経へふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神経をも大切にかばっている。むだな侮りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きっとそこまで思いつめる。だから、あらそいをいやがるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を数多く知っている。否という一言をさえ、十色くらいにはなんなく使いわけて見せるだろう。議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交しているのだ。そしておしまいに笑って握手しながら、腹のなかでお互いがともにともにこう呟く。低脳め!」
「(…)彼等は、よく笑う。なんでもないことにでも大声たてて笑いこける。笑顔をつくることは、青年たちにとって、息を吐き出すのと同じくらい容易である。いつの頃からそんな習性がつき始めたのであろう。笑わなければ損をする。笑うべきどんな些細な対象をも見落すな。ああ、これこそ貪婪な美食主義のはかない片鱗ではなかろうか。けれども悲しいことには、彼等は腹の底から笑えない。笑いくずれながらも、おのれの姿勢を気にしている。」(「道化の華」)
これらの部分にギクッとさせられはしたけれど、もはや高校生ではなく過剰な自意識からもいくらかは脱したつもりの私は、「道化の華」の太宰の身代わりである大庭葉蔵へ友人の小菅の向ける「観賞」の目線に自分のそれが自然と溶け込めているという変化に今回気付いたのだけど、同時に半分自分を欺いている感じにどうもそわそわする。実際にはよく似た芽を水面下で保ちつつ素知らぬ顔で隠しては、高みの見物の人々にまぎれようとするような、罪深くて悪辣な感じがして。というかこの文章に接して、以前なら「十重二十重の仮面」や「腹の底から笑えない」やらを部分的に引用して自分の文脈の中に勝手に貼り付けて陶酔するやり方を悪びれず行っていたのが、今引っかかったのは自分の動作に自分で注釈をつけたりポーズを気にしたりと、客観的視線が頭の中を常にちらついている部分だったのですが。あ、どっちも結局は同じですか。
って、別に何のオチもなく新解釈に挑むわけでもなく、個人的な後ろめたさをいつものように繰り返すだけの文章になってしまった。だいたいギクッとした「気のする」少年少女なんか掃いて捨てるほどいるのだろうよ。それにしても太宰治は異形の人だなあという思いは強まった。終わりない自己言及の連鎖地獄。印象に残った読書を挙げる時に、太宰治の名前をいっさいの照れや気負いもなく、つまり他の作家の名前を差し出す時と同じような何気ない感じで、その何気なさも意識しないでいい境地に、そのうち達する日もくるのだろうかと思う。
さてご飯を作りにかかります。私にはやっぱり生活の場を選ぶ方が座りがいい。
ISBN:4101121028 文庫 安部公房 新潮社 1969/05 ¥460
湿っぽさや曖昧さのない硬質なレトリックの文章を、ねばっこい感傷にまみれた学生時代の私がどうしてあれほど「好き」と公言していたのだろうと振り返るけれど、結局は難解なものに対する憧れや崇拝だけで安部公房に執着していたのだと思う。
久しぶりに読み返してみたけど、やっぱり凄く面白いという満足感は以前と同じで、次々に転換する不条理な場面をこうも滑らかに繋ぎ合わせていく才能の凄さを改めて思った。
「空気は不眠症の臭いがするほど乾燥し〜」「ぼくの考えは水につけた膠のようにぐにゃぐにゃしはじめました」のような独特の比喩につき当たるたび、読み手と感覚を共有できなくなる限界地までひたすら野心的に漕ぎ出でようとしているような印象を受けて、久しぶりに気持ちの高揚する読書でした。
湿っぽさや曖昧さのない硬質なレトリックの文章を、ねばっこい感傷にまみれた学生時代の私がどうしてあれほど「好き」と公言していたのだろうと振り返るけれど、結局は難解なものに対する憧れや崇拝だけで安部公房に執着していたのだと思う。
久しぶりに読み返してみたけど、やっぱり凄く面白いという満足感は以前と同じで、次々に転換する不条理な場面をこうも滑らかに繋ぎ合わせていく才能の凄さを改めて思った。
「空気は不眠症の臭いがするほど乾燥し〜」「ぼくの考えは水につけた膠のようにぐにゃぐにゃしはじめました」のような独特の比喩につき当たるたび、読み手と感覚を共有できなくなる限界地までひたすら野心的に漕ぎ出でようとしているような印象を受けて、久しぶりに気持ちの高揚する読書でした。
ISBN:4003223314 文庫 河島弘美 岩波書店 2004/02/19 ¥588
「(…)あたしのヒースクリフへの愛は、足もとの永遠の岩のようなもので、目をほとんど楽しませないかも知れないけど、なくてはならないものなのだ。あたしはヒースクリフなのよ、ネリ!彼は、いつでも、いつでも、あたしの心の中にいる。よろこびとしてではないかも知れぬということは、あたしがあたしにとって、いつもよろこびだといえないと同じだけど、(…)」(阿部知二訳、岩波文庫、1960.7)
阿部訳はあまりよくないという評をネット上でいくつか目にして、すごーくすごーくテンション下がっています。まだ下巻にも手をつけていないのに!それらの評価が言っているほど読みづらいとは思わないのだけど…。
「(…)あたしのヒースクリフへの愛は、足もとの永遠の岩のようなもので、目をほとんど楽しませないかも知れないけど、なくてはならないものなのだ。あたしはヒースクリフなのよ、ネリ!彼は、いつでも、いつでも、あたしの心の中にいる。よろこびとしてではないかも知れぬということは、あたしがあたしにとって、いつもよろこびだといえないと同じだけど、(…)」(阿部知二訳、岩波文庫、1960.7)
阿部訳はあまりよくないという評をネット上でいくつか目にして、すごーくすごーくテンション下がっています。まだ下巻にも手をつけていないのに!それらの評価が言っているほど読みづらいとは思わないのだけど…。
ISBN:4163677003 単行本 内田樹 文藝春秋 2005/11 ¥1,600
靖国問題や日中・日米関係などについて論じた「? 問いの立て方を変える」に特に感銘を受けて色々と考えていたところに、首相が靖国参拝をほのめかしたとかで、非常にタイムリーな思いがした(「15日ならず、いつ行っても(中国などは)批判する。いつ行っても同じだ」というコメントは凄いですね)。
最近ようやく政治や国際情勢に人並みに興味を持てるようになった私だから、本書でも繰り返し問われている「何故反日感情を煽るのが明白であるのにあそこまで執拗に靖国参拝を繰り返すのか?」という問題に対しては、公人ではなく小泉純一郎という一個人の、偏執的な思い入れの勢い余った発露では?程度の発想より先に進めずにいたのだけど、「靖国再論」という項で著者が指摘してる、この問題の背景には日米のある共謀関係があり靖国参拝は世論を掌握するためのスイッチとして機能させられているのではないか…という論の展開の仕方には、おおーと驚く。その他の部分も説得力はもちろんのこと探求心や「世界に開いていく」力が感じられて、良質な知を味わえた充実感があった。
「? 武術的思考」内の「武道家から見る改憲論」も良かった。
(…)戦争はあくまで「不祥」の、すなわち「二度と起きてはならない災厄として観念さ
れなければならない。二度と起きてはならない事況に備えて、できるだけ使わずに済
ませたい軍事力を整備すること。この矛盾に引き裂かれてあることが「兵」の常態で
ある。勝たなければならないが勝つことを欲望してはならないという背理のうちに立
ちつくすのが老子以来の「兵の王道」なのである。
私は憲法九条と自衛隊の「併存」という「ねじれ」を「歴史上もっともうまく機能した
政治的妥協のひとつ」だと考えている。(…)
改憲の必要はないという著者の主張を他のテキストで読んだ記憶があるけれど、著者の言う「整合性」に無自覚のうちに染まっていた私は、この「ねじれ」の意義を認めるどころか意識すらした事がなかったんだなあと気付かされる。これは『9条どうでしょう』も読んでおくべきか。
ブログに掲載された文書にエディットを加えたのが本書なので、内容は他にもリスク社会や記号論、レヴィナスの他者論などばらつきがある。そのばらばらの根底に一貫してある著者の姿勢からは、全肯定にも全否定にも安易に走らずに地道に吟味を重ね、双方を柔らかく内包し折衷する思想や思索を保つことの尊さを思った(そういえばこの人フェミニストが嫌いなんだっけ)。私も硬直状態に陥らず、自分と異なるものに厳しく門を閉ざさず一旦は柔らかくキャッチし保留にできるような緩衝材のごときものを自分の中にイメージしていきたいものです、できることなら。
靖国問題や日中・日米関係などについて論じた「? 問いの立て方を変える」に特に感銘を受けて色々と考えていたところに、首相が靖国参拝をほのめかしたとかで、非常にタイムリーな思いがした(「15日ならず、いつ行っても(中国などは)批判する。いつ行っても同じだ」というコメントは凄いですね)。
最近ようやく政治や国際情勢に人並みに興味を持てるようになった私だから、本書でも繰り返し問われている「何故反日感情を煽るのが明白であるのにあそこまで執拗に靖国参拝を繰り返すのか?」という問題に対しては、公人ではなく小泉純一郎という一個人の、偏執的な思い入れの勢い余った発露では?程度の発想より先に進めずにいたのだけど、「靖国再論」という項で著者が指摘してる、この問題の背景には日米のある共謀関係があり靖国参拝は世論を掌握するためのスイッチとして機能させられているのではないか…という論の展開の仕方には、おおーと驚く。その他の部分も説得力はもちろんのこと探求心や「世界に開いていく」力が感じられて、良質な知を味わえた充実感があった。
「? 武術的思考」内の「武道家から見る改憲論」も良かった。
(…)戦争はあくまで「不祥」の、すなわち「二度と起きてはならない災厄として観念さ
れなければならない。二度と起きてはならない事況に備えて、できるだけ使わずに済
ませたい軍事力を整備すること。この矛盾に引き裂かれてあることが「兵」の常態で
ある。勝たなければならないが勝つことを欲望してはならないという背理のうちに立
ちつくすのが老子以来の「兵の王道」なのである。
私は憲法九条と自衛隊の「併存」という「ねじれ」を「歴史上もっともうまく機能した
政治的妥協のひとつ」だと考えている。(…)
改憲の必要はないという著者の主張を他のテキストで読んだ記憶があるけれど、著者の言う「整合性」に無自覚のうちに染まっていた私は、この「ねじれ」の意義を認めるどころか意識すらした事がなかったんだなあと気付かされる。これは『9条どうでしょう』も読んでおくべきか。
ブログに掲載された文書にエディットを加えたのが本書なので、内容は他にもリスク社会や記号論、レヴィナスの他者論などばらつきがある。そのばらばらの根底に一貫してある著者の姿勢からは、全肯定にも全否定にも安易に走らずに地道に吟味を重ね、双方を柔らかく内包し折衷する思想や思索を保つことの尊さを思った(そういえばこの人フェミニストが嫌いなんだっけ)。私も硬直状態に陥らず、自分と異なるものに厳しく門を閉ざさず一旦は柔らかくキャッチし保留にできるような緩衝材のごときものを自分の中にイメージしていきたいものです、できることなら。
ISBN:4396761775 コミック 楠本まき 祥伝社 1998/04 ¥980
本棚を掃除していたら出てきたので読み返す。蜜はある意味でおそろしく魅力的な人物なのだけど、といって蜜になりたいとはやはり思わないし、ましてやこれを読んで「蜜は私に似ている」と無邪気にも言い放つ女の子にだけは決してなるまいと、その時中学生だったか高校生だったかの私は思ったのだった。
こういう題材の漫画は他にもあるだろうとは思うけれど、当時の私にはかなり衝撃的だった。コマ割りや色使いが映像的で現実離れしている。読むたびに頭の中が何だか混線するような気持ちがした。
**********
久々に晴れたので洗濯物を干して自転車でスーパーへ。河が茶色くごうごうと流れていた。これから仕事。今日は遅刻ぎりぎりかも。
本棚を掃除していたら出てきたので読み返す。蜜はある意味でおそろしく魅力的な人物なのだけど、といって蜜になりたいとはやはり思わないし、ましてやこれを読んで「蜜は私に似ている」と無邪気にも言い放つ女の子にだけは決してなるまいと、その時中学生だったか高校生だったかの私は思ったのだった。
こういう題材の漫画は他にもあるだろうとは思うけれど、当時の私にはかなり衝撃的だった。コマ割りや色使いが映像的で現実離れしている。読むたびに頭の中が何だか混線するような気持ちがした。
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久々に晴れたので洗濯物を干して自転車でスーパーへ。河が茶色くごうごうと流れていた。これから仕事。今日は遅刻ぎりぎりかも。
ハチミツとクローバー 9 (9)
2006年7月19日 読書
ISBN:4088653521 コミック 羽海野チカ 集英社 2006/07/14 ¥420
自分のキャラと随分かけ離れた漫画を買っているなあとつくづく思う。
最後のページのあの場面は救いを表しているのだと思うけど、よく考えてみるとああいう「描く」という事が命と密接に繋がっているような切実さを抱える人の立場からすれば、その辺の気持ちはああいう形で十分フォローしきれているのだろうか、と何だか気にかかった。ああいう風にされたらアンビバレントな複雑な気持ちに陥ってしまいそう。
人によって「救いたい」という気持ちの伝え方は色々で、また受け取る方にもそれは言えるだろうし、両者がシンクロすればとても幸せなことだけど。「救い」って何なんだろうなと妙に考えこんでしまった。
それにしても最初の頃と同じ漫画とは思えませんね。森田兄弟のエピソードに対しては、一貫して破天荒なだけのキャラクターもあってほしかったなあという感じだけど、それだと全体から浮いてしまって良くないのか。山田さんが巻を追うごとに幼い顔になっていくのが気になる。
自分のキャラと随分かけ離れた漫画を買っているなあとつくづく思う。
最後のページのあの場面は救いを表しているのだと思うけど、よく考えてみるとああいう「描く」という事が命と密接に繋がっているような切実さを抱える人の立場からすれば、その辺の気持ちはああいう形で十分フォローしきれているのだろうか、と何だか気にかかった。ああいう風にされたらアンビバレントな複雑な気持ちに陥ってしまいそう。
人によって「救いたい」という気持ちの伝え方は色々で、また受け取る方にもそれは言えるだろうし、両者がシンクロすればとても幸せなことだけど。「救い」って何なんだろうなと妙に考えこんでしまった。
それにしても最初の頃と同じ漫画とは思えませんね。森田兄弟のエピソードに対しては、一貫して破天荒なだけのキャラクターもあってほしかったなあという感じだけど、それだと全体から浮いてしまって良くないのか。山田さんが巻を追うごとに幼い顔になっていくのが気になる。
ISBN:4101116083 文庫 幸田文 新潮社 1996/11 ¥580
着物ついでにこの本。これは良かった!銘仙や袴などの着物だけでなく、時には体操着や洋装、花嫁衣裳などの「着るもの」全般のかかわる瞬間瞬間のことを、その着るものへの思い入れや入り組んだ気持ちを織り交ぜて穏やかに語られる。
着物を通して、三人姉妹の末娘「るつ子」が主にお婆さんから知恵や儀礼、思いやりを学んで成長していく過程が書かれているのだけど、この人の文体は、ものを描写することでそれを身に着ける人物の表情やたたずまい、人柄を鮮明に浮き上がらせるのがうまいなあと思う。姿勢がしゃんと正されていくような文体で、着るもので例えれば洗濯したてのぱりっとしたシャツや、質素で手触りの優しい木綿のような感じ。ああいう風に物語が閉じられたのには何だか感慨深いものがあった。
幸田さんの綴る文章は日本語がしっとりしていてやわらかくて、心地よい肌触りの布地に対する時のように何度も触れたくなるものがある。 最近は「おとうと」「闘」「きもの」と読んで、合間に他の著者の本を手に取ったけどあまり続かず、今は「流れる」を読んでいる。落ち着いた文章がすらすらと自分の中にしみこんでいく感じがする。
明治時代の終りに東京の下町に生れたるつ子は、あくまでもきものの着心地にこだわる利かん気の少女。よき相談役の祖母に助けられ、たしなみや人付き合いの心得といった暮らしの中のきまりを、“着る”ということから学んでゆく。現実的で生活に即した祖母の知恵は、関東大震災に遭っていよいよ重みを増す。大正期の女の半生をきものに寄せて描いた自伝的作品。著者最後の長編小説。
着物ついでにこの本。これは良かった!銘仙や袴などの着物だけでなく、時には体操着や洋装、花嫁衣裳などの「着るもの」全般のかかわる瞬間瞬間のことを、その着るものへの思い入れや入り組んだ気持ちを織り交ぜて穏やかに語られる。
着物を通して、三人姉妹の末娘「るつ子」が主にお婆さんから知恵や儀礼、思いやりを学んで成長していく過程が書かれているのだけど、この人の文体は、ものを描写することでそれを身に着ける人物の表情やたたずまい、人柄を鮮明に浮き上がらせるのがうまいなあと思う。姿勢がしゃんと正されていくような文体で、着るもので例えれば洗濯したてのぱりっとしたシャツや、質素で手触りの優しい木綿のような感じ。ああいう風に物語が閉じられたのには何だか感慨深いものがあった。
幸田さんの綴る文章は日本語がしっとりしていてやわらかくて、心地よい肌触りの布地に対する時のように何度も触れたくなるものがある。 最近は「おとうと」「闘」「きもの」と読んで、合間に他の著者の本を手に取ったけどあまり続かず、今は「流れる」を読んでいる。落ち着いた文章がすらすらと自分の中にしみこんでいく感じがする。
ISBN:4163248501 単行本 絲山秋子 文藝春秋 2006/02/23 ¥1,000
例えば表題作に「福岡に慣れてくると、だんだん学生時代の友達とは話が合わなくなって来ました。電話で話を聞いていても、東京しか知らないくせに、とか、現場を知らないくせに、とかそんなことに自分がこだわってしまうのです。学生のときに一緒に感じていたものって、なんだったんだろう、考えてもあまり思い出せなくなりました。」というある種薄情とも言える感情が描かれているのは、すんなり受け止められる。のだけど併録「勤労感謝の日」が一貫してそれと似たような、ドライでさばさばさばしているのと(はっきり言って)冷淡で性格が悪いのとが紙一重、みたいな性格を強く持つ者として主人公が設定されている必然性が、あまりよくわからない。「まあいい、長谷川さんに救われはしたが、長谷川さんのための人生ではないのだ。」という開き直りなんて、人の本性がずばっと切り取られているとも受け取れるが、むやみやたらと切り取ればそれで人間への観察眼が優れているということには、なる気はするがなんか違うよねそれって、と思う。
それでいてラストでは、そういう気質に対してどちらかと言うと肯定的な(ほとんど自己を省みない主人公なので何とも言えないが、少なくとも否定的ではない)ニュアンスを滲ませた終わり方で、ヒリヒリする毎日の中のちょっと安らぐ瞬間、みたいな感じをさらっと書いているのだろうか、それにも更にうーんって感じ。あ、そうか、このすまし顔のラストが気に食わないのか。
「勤労感謝の日」は後にまわして読んで、読了直後はそっちの方が読み応えはあった気がしたが、冷静に考えると表題作の方がいい。同期入社した男女の、「友情」「愛情」など名前のついたどんな関係性もやんわり拒むような微妙な距離感が。でも芥川賞かー…と思うと…(私のイメージするほどの権威は今ではもうないのかもしれないけど)それに見合った物語としての厚みはあるとは思えない。一時間で両方読了できたのに驚き。個人的な好みとそのものの価値の有無とを結びつけるのは暴力的で軽薄だと反省しつつも、アマゾンレビューを見ると「勤労感謝の日」みたいな作風が多い様子なので、もう一冊読むことはないだろうなという印象だった。
例えば表題作に「福岡に慣れてくると、だんだん学生時代の友達とは話が合わなくなって来ました。電話で話を聞いていても、東京しか知らないくせに、とか、現場を知らないくせに、とかそんなことに自分がこだわってしまうのです。学生のときに一緒に感じていたものって、なんだったんだろう、考えてもあまり思い出せなくなりました。」というある種薄情とも言える感情が描かれているのは、すんなり受け止められる。のだけど併録「勤労感謝の日」が一貫してそれと似たような、ドライでさばさばさばしているのと(はっきり言って)冷淡で性格が悪いのとが紙一重、みたいな性格を強く持つ者として主人公が設定されている必然性が、あまりよくわからない。「まあいい、長谷川さんに救われはしたが、長谷川さんのための人生ではないのだ。」という開き直りなんて、人の本性がずばっと切り取られているとも受け取れるが、むやみやたらと切り取ればそれで人間への観察眼が優れているということには、なる気はするがなんか違うよねそれって、と思う。
それでいてラストでは、そういう気質に対してどちらかと言うと肯定的な(ほとんど自己を省みない主人公なので何とも言えないが、少なくとも否定的ではない)ニュアンスを滲ませた終わり方で、ヒリヒリする毎日の中のちょっと安らぐ瞬間、みたいな感じをさらっと書いているのだろうか、それにも更にうーんって感じ。あ、そうか、このすまし顔のラストが気に食わないのか。
「勤労感謝の日」は後にまわして読んで、読了直後はそっちの方が読み応えはあった気がしたが、冷静に考えると表題作の方がいい。同期入社した男女の、「友情」「愛情」など名前のついたどんな関係性もやんわり拒むような微妙な距離感が。でも芥川賞かー…と思うと…(私のイメージするほどの権威は今ではもうないのかもしれないけど)それに見合った物語としての厚みはあるとは思えない。一時間で両方読了できたのに驚き。個人的な好みとそのものの価値の有無とを結びつけるのは暴力的で軽薄だと反省しつつも、アマゾンレビューを見ると「勤労感謝の日」みたいな作風が多い様子なので、もう一冊読むことはないだろうなという印象だった。
ISBN:4167181142 文庫 筒井康隆 文藝春秋 2005/10/07 ¥650
「ビーバップハイヒール」という関西ローカル番組にレギュラー出演しているのが気になるなあというのはさておき、先日まで筒井作品ばかり立て続けに図書館で借りていた。連載されたのが昭和52〜53年なので現在と状況がだいぶ違う部分もあるけれど、パロディ小説としてただただ面白く読んだ。
「それならいったい店のことをいつあなたに相談したらいいのです。いつ相談したって、店のことはお前にまかせてあるとしか言わないじゃないの、そんなら店のお金なんかあてにしないで。お店なんかないものと思ってよ。あんたはブンガクになっちまったけど、わたしはブンガクなんかになんかまだなっていないし、なりたくもないもんね。もうお金がないのよ。お金がなくなったら店が潰れるのよ。そしたらあんたはどうするつもり。いいえ。あなたは例のブンガクなお友達がたくさんいるから助けて貰えるかもしれない、ずっとブンガクなままでいられるかもしれないけど、わたしや瞳はどうしたらいいの。(中略)一雄の同人誌仲間が集まり、小さな裏庭に面した、一雄の書斎にもなっている六畳の座敷で合評会をやり始めた時など、夫がそういう時だけはいつもの横暴さを見せず悪妻に悩まされているおとなしい夫という殉教者ポーズをとるのをいいことに、せいいっぱいのふくれっ面や十回以上催促されるまでは茶を出さぬことでブンガクへの無言の敵意を示したりしたが、冷遇に馴れているのかブンガクな人間どもにはあまり通じないようだった。」
読みながらいくつかの描写を個人的な話にいちいち結び付けてしまう。私は実用面で何の役にも立たないものに熱中するのは結構好きな方だ。私も妹も、そこに求めるものは違えど、共通して(思いがけず)文学がらみの専攻を希望する結果になったけれど、文学に必要以上にのめりこむのって時に親不孝な行いなのかもということが身に近しいものとして痛切に感じられたのは、先日母メールを読んだ瞬間がもしかしたら初めてだったかもしれない。
自分を振り返って、中庸をひたすら心に言い聞かせる傾向は年々強まっている感じがするのだけど、そのあまりに自分で自分がなんとなく居心地悪くもなっている。どちらかの極めがけて破滅的なまでにまっしぐらに走ってみたいよなあと思いはするものの、それだけの思い切りも持てないでいるのだった。
「ビーバップハイヒール」という関西ローカル番組にレギュラー出演しているのが気になるなあというのはさておき、先日まで筒井作品ばかり立て続けに図書館で借りていた。連載されたのが昭和52〜53年なので現在と状況がだいぶ違う部分もあるけれど、パロディ小説としてただただ面白く読んだ。
「それならいったい店のことをいつあなたに相談したらいいのです。いつ相談したって、店のことはお前にまかせてあるとしか言わないじゃないの、そんなら店のお金なんかあてにしないで。お店なんかないものと思ってよ。あんたはブンガクになっちまったけど、わたしはブンガクなんかになんかまだなっていないし、なりたくもないもんね。もうお金がないのよ。お金がなくなったら店が潰れるのよ。そしたらあんたはどうするつもり。いいえ。あなたは例のブンガクなお友達がたくさんいるから助けて貰えるかもしれない、ずっとブンガクなままでいられるかもしれないけど、わたしや瞳はどうしたらいいの。(中略)一雄の同人誌仲間が集まり、小さな裏庭に面した、一雄の書斎にもなっている六畳の座敷で合評会をやり始めた時など、夫がそういう時だけはいつもの横暴さを見せず悪妻に悩まされているおとなしい夫という殉教者ポーズをとるのをいいことに、せいいっぱいのふくれっ面や十回以上催促されるまでは茶を出さぬことでブンガクへの無言の敵意を示したりしたが、冷遇に馴れているのかブンガクな人間どもにはあまり通じないようだった。」
読みながらいくつかの描写を個人的な話にいちいち結び付けてしまう。私は実用面で何の役にも立たないものに熱中するのは結構好きな方だ。私も妹も、そこに求めるものは違えど、共通して(思いがけず)文学がらみの専攻を希望する結果になったけれど、文学に必要以上にのめりこむのって時に親不孝な行いなのかもということが身に近しいものとして痛切に感じられたのは、先日母メールを読んだ瞬間がもしかしたら初めてだったかもしれない。
自分を振り返って、中庸をひたすら心に言い聞かせる傾向は年々強まっている感じがするのだけど、そのあまりに自分で自分がなんとなく居心地悪くもなっている。どちらかの極めがけて破滅的なまでにまっしぐらに走ってみたいよなあと思いはするものの、それだけの思い切りも持てないでいるのだった。
ISBN:479496398X 単行本 竹内敏晴 晶文社 1999/06 ¥1,575
こころとからだ、からだと言葉のつながりのことと並んで、本書にある「客体としてのからだ」というのはまさに今の私の感心事。からだを扱う、からだに接する上でどんな姿勢でいるべきなのかが、現在の仕事に関わって以来私の中に芽生えてきた。
でもいくら頭だけでうんうん考えていても何も掴めそうにない。多分この仕事に(現在のゆるいペースであれば)端っこの方ながら携わっているうちに、毎日ごく僅かな気付きや気付き未満のものが蓄積されて、そのうちまとまった形となるのかもしれない、と。
こころとからだ、からだと言葉のつながりのことと並んで、本書にある「客体としてのからだ」というのはまさに今の私の感心事。からだを扱う、からだに接する上でどんな姿勢でいるべきなのかが、現在の仕事に関わって以来私の中に芽生えてきた。
でもいくら頭だけでうんうん考えていても何も掴めそうにない。多分この仕事に(現在のゆるいペースであれば)端っこの方ながら携わっているうちに、毎日ごく僅かな気付きや気付き未満のものが蓄積されて、そのうちまとまった形となるのかもしれない、と。
ISBN:4048734857 単行本 重松清 角川書店 2003/08 ¥1,890
多分この小説の読まれ方としては、主人公シュウジの目線になってストーリーに感情移入して読むというのがほとんどなのだと思うけど、自分でも不思議なくらいそれができずに別のポイントが気になってしまった(田舎町の「沖」と「浜」と呼ばれる地域の対立の描写は近しいものとして感じられた)。テーマ自体は惹かれるものなのに、自分でもその理由が言えそうでうまく言えない。文庫版で読んだが上巻を読み終えて下巻に移るまでに時間がかかった。
この物語は「僕は」「シュウジは」という人称によってではなく、シュウジに「おまえ」と呼びかける語り手によって、「おまえは…した」という具合に語られる。キリスト教が重要な要素のひとつとして関わってくるだけあって、その語りには物語全体を俯瞰する−全知全能の−者を思わせるところがあり、なるほど作者は意図してこの方法をとったんだろうなあと思いながら読んでいた。
気になったポイントというのはそれに関してのことで、物語の最後の最後でスポットライトが語り手の方へ向けられる箇所がある。そこであらわれた語り手の顔が、実は作中のある登場人物のそれであったのだということが読者へ明らかにされる。登場人物が物語の全体やそれぞれの人達の顛末などを把握することが可能だという方法をとる小説ではないから、とすると私のはじめの印象とは矛盾するこの語り手像をどう考えればいいのか、語り手は本当はなにものなのか?という疑問が出てきてしまったのだ。
読み終わって振り返ると、シュウジの身に起きる凄惨な出来事の数々に比して物語が美しく閉じられすぎている気がしたのがしっくりこなかったのだけど、そこには作者の赦しや切実な希望が込められているからなのかもしれない、と考えると少し納得がいくようないかないような。
うーん今回の感想は特に、ちゃんと客観的に理解できる文章になってるか不安。
一家離散、いじめ、暴力、セックス、バブル崩壊の爪痕、殺人……。14歳の孤独な魂にとって、この世に安息の地はあるのか……。直木賞作家が圧倒的な筆致で描く現代の黙示録。
剥き出しの「人間」どもの営みと、苛烈を生き抜いた少年の奇跡。比類なき感動の結末が待ち受ける現代の黙示録。重松清畢生1100枚!
想像を絶する孤独のなか、ただ、他人とつながりたい…それだけを胸に煉獄の道のりを懸命に走りつづけた一人の少年。現代日本に出現した奇跡の衝撃作、ついに刊行!
多分この小説の読まれ方としては、主人公シュウジの目線になってストーリーに感情移入して読むというのがほとんどなのだと思うけど、自分でも不思議なくらいそれができずに別のポイントが気になってしまった(田舎町の「沖」と「浜」と呼ばれる地域の対立の描写は近しいものとして感じられた)。テーマ自体は惹かれるものなのに、自分でもその理由が言えそうでうまく言えない。文庫版で読んだが上巻を読み終えて下巻に移るまでに時間がかかった。
この物語は「僕は」「シュウジは」という人称によってではなく、シュウジに「おまえ」と呼びかける語り手によって、「おまえは…した」という具合に語られる。キリスト教が重要な要素のひとつとして関わってくるだけあって、その語りには物語全体を俯瞰する−全知全能の−者を思わせるところがあり、なるほど作者は意図してこの方法をとったんだろうなあと思いながら読んでいた。
気になったポイントというのはそれに関してのことで、物語の最後の最後でスポットライトが語り手の方へ向けられる箇所がある。そこであらわれた語り手の顔が、実は作中のある登場人物のそれであったのだということが読者へ明らかにされる。登場人物が物語の全体やそれぞれの人達の顛末などを把握することが可能だという方法をとる小説ではないから、とすると私のはじめの印象とは矛盾するこの語り手像をどう考えればいいのか、語り手は本当はなにものなのか?という疑問が出てきてしまったのだ。
読み終わって振り返ると、シュウジの身に起きる凄惨な出来事の数々に比して物語が美しく閉じられすぎている気がしたのがしっくりこなかったのだけど、そこには作者の赦しや切実な希望が込められているからなのかもしれない、と考えると少し納得がいくようないかないような。
うーん今回の感想は特に、ちゃんと客観的に理解できる文章になってるか不安。
ISBN:4120017877 単行本 筒井 康隆 中央公論社 1989/04 ¥1,155
学生時代に読んだものを再読。
言葉とともにその言葉が指し示す物事や概念などが一緒に消失していくという究極の虚構世界を、主人公の小説家とその友人の評論家とが発案し、実際に彼ら自身がその虚構の登場人物となる事を試みる。つまり登場人物が自身を小説の中に生きている者として意識しているという種類の小説で、はじめのほうで虚構/現実の間にはどの程度の差があるか?という事が反語的なニュアンスも伴いながら考察・解説されている。
そういう考えを突き詰めていくと何が何だかわからなくなりそうだったのでひとまず置いておいて、彼らが「言語ゲーム」と言っているとおり、ストーリーはエンターテインメント要素が強く実験的で、序盤こそ小説家はゲームを楽しむがごとく自分の置かれた少しの不自由さと奇妙さを楽しみながら生活している。そのトーンは終盤までほぼ崩れない一方で、家族が消えどんどん音や物が失われていくあたりから徐々に「失われる」ということに伴う喪失感や切なさが複雑に混ざっていく。物語世界は徐々に崩壊しながらもラストまで止まらず突き進んでいく。
面白くなっていくのは、第二部終わりの方で小説家の子供時代や両親に抱いていたルサンチマンのような感情が吐露されていくあたりから第三部にかけてのあたりだと個人的には思う。第三部では二十二音は残されているものの、すでに文体はほとんど韻文詩のようになっている。その断片的な文(ほとんど文ではなく単語)の綴り方がぎこちない疾走感を生み、物語の切なさをいっそう強めていて、何ともいえない思いがした。そして世界からは全ての音が失われ、茫洋とした空白とともに虚構世界は幕をおろす。
そういうわけで発想やそれを実現しうる技術にうならされるのは勿論だけど、単に限界まで言葉をなくしていく事のみをドライに徹しきって追求しているわけでもなく、それがちゃんと文学になっていることが素晴らしい作品だと思う。言語ゲームの側面と小説としての表現の側面とが絶妙に入り交ざっている。
でもこのタイトルだけは、89年だからか何だか古臭いですね。
「あ」が使えなくなると、「愛」も「あなた」も消えてしまった。世界からひとつ、またひとつと、ことばが消えてゆく。愛するものを失うことは、とても哀しい…。言語が消滅するなかで、執筆し、飲食し、講演し、交情する小説家を描き、その後の著者自身の断筆状況を予感させる、究極の実験的長篇小説。
学生時代に読んだものを再読。
言葉とともにその言葉が指し示す物事や概念などが一緒に消失していくという究極の虚構世界を、主人公の小説家とその友人の評論家とが発案し、実際に彼ら自身がその虚構の登場人物となる事を試みる。つまり登場人物が自身を小説の中に生きている者として意識しているという種類の小説で、はじめのほうで虚構/現実の間にはどの程度の差があるか?という事が反語的なニュアンスも伴いながら考察・解説されている。
そういう考えを突き詰めていくと何が何だかわからなくなりそうだったのでひとまず置いておいて、彼らが「言語ゲーム」と言っているとおり、ストーリーはエンターテインメント要素が強く実験的で、序盤こそ小説家はゲームを楽しむがごとく自分の置かれた少しの不自由さと奇妙さを楽しみながら生活している。そのトーンは終盤までほぼ崩れない一方で、家族が消えどんどん音や物が失われていくあたりから徐々に「失われる」ということに伴う喪失感や切なさが複雑に混ざっていく。物語世界は徐々に崩壊しながらもラストまで止まらず突き進んでいく。
面白くなっていくのは、第二部終わりの方で小説家の子供時代や両親に抱いていたルサンチマンのような感情が吐露されていくあたりから第三部にかけてのあたりだと個人的には思う。第三部では二十二音は残されているものの、すでに文体はほとんど韻文詩のようになっている。その断片的な文(ほとんど文ではなく単語)の綴り方がぎこちない疾走感を生み、物語の切なさをいっそう強めていて、何ともいえない思いがした。そして世界からは全ての音が失われ、茫洋とした空白とともに虚構世界は幕をおろす。
そういうわけで発想やそれを実現しうる技術にうならされるのは勿論だけど、単に限界まで言葉をなくしていく事のみをドライに徹しきって追求しているわけでもなく、それがちゃんと文学になっていることが素晴らしい作品だと思う。言語ゲームの側面と小説としての表現の側面とが絶妙に入り交ざっている。
でもこのタイトルだけは、89年だからか何だか古臭いですね。
ISBN:410314520X 単行本 筒井 康隆 新潮社 1990/09 ¥1,325
一般的なミステリーの手法をとっているように思わせながら、生粋のミステリー好きの読者からは「反則では」と不満の声があがりそうな大胆な着地の仕方をしている。やられた!って感じで私は面白く読めたのは、普段よっぽどのことがないとミステリーを手に取らないせいもあるのかもしれないけれど、知的で筒井康隆らしい感じのするトリックで、ミステリーという分野の中で筒井氏の持ち味が痛烈なまでに効いていて、驚きとともに読める作品ではと思う。
ともかく、素直に謎解きをしようとすると、最終的には「誰も犯人に該当しない」という結論が出てしまう。では一体犯人は?犯行の方法は?と行き詰るのだけど、この小説が「メタ・ミステリー」と銘打たれていることがヒントの一つとなっているように思う。前半で登場する間取り図も。何となく感じた違和感を放っておいて読み進めたのだけど、やっぱりあの違和感は間違っていなかったんだな、と少し嬉しさの混ざった読後感だった。
夏の終わり、郊外の瀟洒な洋館に将来を約束された青年たちと美貌の娘たちが集まった。ロートレックの作品に彩られ、優雅な数日間のバカンスが始まったかに見えたのだが…。二発の銃声が惨劇の始まりを告げた。一人また一人、美女が殺される。邸内の人間の犯行か、アリバイを持たぬ者は、動機は。推理小説史上初のトリックが読者を迷宮へと誘う。前人未到のメタ・ミステリー。
一般的なミステリーの手法をとっているように思わせながら、生粋のミステリー好きの読者からは「反則では」と不満の声があがりそうな大胆な着地の仕方をしている。やられた!って感じで私は面白く読めたのは、普段よっぽどのことがないとミステリーを手に取らないせいもあるのかもしれないけれど、知的で筒井康隆らしい感じのするトリックで、ミステリーという分野の中で筒井氏の持ち味が痛烈なまでに効いていて、驚きとともに読める作品ではと思う。
ともかく、素直に謎解きをしようとすると、最終的には「誰も犯人に該当しない」という結論が出てしまう。では一体犯人は?犯行の方法は?と行き詰るのだけど、この小説が「メタ・ミステリー」と銘打たれていることがヒントの一つとなっているように思う。前半で登場する間取り図も。何となく感じた違和感を放っておいて読み進めたのだけど、やっぱりあの違和感は間違っていなかったんだな、と少し嬉しさの混ざった読後感だった。
ISBN:4163165509 単行本 川上 弘美 文藝春秋 1996/08 ¥1,050
文庫版の裏表紙に、「蛇を踏む」は「若い女性の自立と孤独」をテーマとし、「消える」は「”消える家族”と”縮む家族”の縁組を通して、現代の家庭を寓意的に描」いたものであるとの紹介文があるけれど、川上作品にはそういう国語の教科書的な解釈をあてる必要性はないのではと思う。
その解釈を頭に入れた状態で読み進めながら、これは何かの暗喩なのか?と数行ごとに考えをめぐらせてみたものの、どうもしっくりこない。というのは彼女の世界が独特で難解なためでもあるけれど、それよりも国語の時間みたいな読みに縛られる事がこの作品の魅力を半減しかねないと感じるためでもある。さっぱりと割り切れる解釈だけではすくいきれないところに、小説というものの存在意義があるのではないかと思うのだ。
教訓やメッセージを無理に導き出さなくても、「読み」というのはもっと柔軟でいいはずだし、それでこそを面白いのだなどと思ってみる。
なんて、読み云々とえらそうに言ってますが、大学時代のゼミの先生の受け売りなのでした。小説を手に取ると、先生ならどう読むだろうかなどと最近時々思い出す。懐かしいなあ。
なんて言いながら小説の内容に一切触れていないのは、私もどうにかしてこの物語を理解しようとしたものの上手く消化できなかったため。頭で読もう読もうとして、独特の世界に感覚を委ねて遊ぶ事ができなかった。あとは全部読みきらないうちにおなかいっぱいになってしまったため(「消える」は特に。くどいんじゃないかと思う)。初めて手に取った『センセイの鞄』以降は、特別心に引っかかるものがないので、相性があまりよくないのかも。
文庫版の裏表紙に、「蛇を踏む」は「若い女性の自立と孤独」をテーマとし、「消える」は「”消える家族”と”縮む家族”の縁組を通して、現代の家庭を寓意的に描」いたものであるとの紹介文があるけれど、川上作品にはそういう国語の教科書的な解釈をあてる必要性はないのではと思う。
その解釈を頭に入れた状態で読み進めながら、これは何かの暗喩なのか?と数行ごとに考えをめぐらせてみたものの、どうもしっくりこない。というのは彼女の世界が独特で難解なためでもあるけれど、それよりも国語の時間みたいな読みに縛られる事がこの作品の魅力を半減しかねないと感じるためでもある。さっぱりと割り切れる解釈だけではすくいきれないところに、小説というものの存在意義があるのではないかと思うのだ。
教訓やメッセージを無理に導き出さなくても、「読み」というのはもっと柔軟でいいはずだし、それでこそを面白いのだなどと思ってみる。
なんて、読み云々とえらそうに言ってますが、大学時代のゼミの先生の受け売りなのでした。小説を手に取ると、先生ならどう読むだろうかなどと最近時々思い出す。懐かしいなあ。
なんて言いながら小説の内容に一切触れていないのは、私もどうにかしてこの物語を理解しようとしたものの上手く消化できなかったため。頭で読もう読もうとして、独特の世界に感覚を委ねて遊ぶ事ができなかった。あとは全部読みきらないうちにおなかいっぱいになってしまったため(「消える」は特に。くどいんじゃないかと思う)。初めて手に取った『センセイの鞄』以降は、特別心に引っかかるものがないので、相性があまりよくないのかも。
すごいよ!!マサルさん―セクシーコマンドー外伝 (7)
2006年4月10日 読書
ISBN:4088722779 コミック うすた 京介 集英社 1997/12 ¥410
夜中に読むとハイになれる漫画ですね。でも今はフラットな気分ではないので、そういう気分には適していないテンションに貫かれているようでもあります。この類まれなる(たまに作者一人がとばしすぎて意味不明な)ギャグセンスが大好きです。独特の擬音もツボだし。それにしても、うすた作品に出てくる男性は何故大抵白いブリーフを着用しているのだろう…なんて事が気になります。すみません。
夜中に読むとハイになれる漫画ですね。でも今はフラットな気分ではないので、そういう気分には適していないテンションに貫かれているようでもあります。この類まれなる(たまに作者一人がとばしすぎて意味不明な)ギャグセンスが大好きです。独特の擬音もツボだし。それにしても、うすた作品に出てくる男性は何故大抵白いブリーフを着用しているのだろう…なんて事が気になります。すみません。