昨日、風邪。なんとか仕事する。
帰ってきたら「ツキを呼ぶ魔法の言葉」とかいう宗教じみた内容の冊子が親から届いていて(しかも彼宛て!)ダウナーな気分により拍車をかける。間の悪い…。私はこういうものが嫌いなので気分が悪かった。
同封された手紙には他にも色々と書かれていて、返信メールを打ちながら思わず舌打ちが漏れてしまった。こちらからすれば気分を害するものに他ならない言葉でも、相手からすれば私のためにしてくれている事なので、そのへんの折り合いをつけるが難しい。
子供のために我慢を強いられてきた人生なのだからあんたも少しは我慢してもバチはあたらへんと思うよというのが(「〜してもバチはあたらへんと思うんやけどなあお母さんは」というのが口癖だった)うちの両親の言い分なのだけど、そうやって互いの我慢を繰り返していくだけなのだとしたら、血を引き継いでいく事ってなんなんだろうなあと思わされた。いい年してそんな疑問を持つのも馬鹿だけど、「そんな事言って何が楽しいんだ」と子が虚しく思い、「何で私らの気持がわからへんの」と親が嘆き…親子ってそういうものなのかなあ
ここに在ってしまった自分というのを人のせいにせず、あくまで自分の責任としてしっかり引き受ける事がいまだに自分の課題で、そういう繰言から抜け出せない私に目の覚めるような体験をさせてほしく思う。
帰省しています。
で、いきなり何を言うかというと。

私の家に時折漂う冷やかな空気、それにめげる。言葉にはあからさまに表現されていはいないけど、そしてそれを発する本人には全く意図されていないものであろうけど、何だか生きていてはいけない気持ちにさせられる。それを再確認するだけのつかの間の家族体験なのか?とは思えど。母にその全てを怨念こめて帰結させようとはいまさら思わない。やっと思わなくなった。母なりの方法で一生懸命子育てをした結果が、これだった(姉妹そろって家庭を好ましく思えないという状態にしかならなかった)のは、昔なら母を責め人並みになれない自分を責めもしたのだけど、もう今ではしょうがない事なのだと思う。色々と巡り合わせが悪かったというか、人を育成する事や家族となる事に向いていなかっただけなのだと思う…と、これはこれで諦めた振りして一層ひどい暴言を吐いているようだな。いや、何だかこう書く事で一層怨念にまみれている感じもしますが、本心からです。何だろう、母は自分が現に与えているものと返ってきて欲しいもの(見返り)とのあまりの食い違いに今でも気付いていないんだろうか。それを見ていると、与える事って本当に(私のような人間にとっては)困難なんだなあと自分を省みたりもしてしまう。もう、知り合いの見ていない(と思われる)場でひどい本音を言うのぐらい許してほしい。すいません。

何だろうねこれは。
明日京都に戻って明後日から仕事。
10月23日の日記
母と妹と晩ご飯を食べる約束だったが、実は直前になって眠くて面倒になる。だけどもこの「直前になって眠い」という感覚の変化を、家族への拒絶のあらわれと取られたらどうしよー厄介だなーみたいに思う。
そういえば実家でも、例えば今日は料理をしたくないと母はうんざりする日もたくさんあったろうと思うのだけど、それを私達への拒絶として受け取ってしまったりもしていた。私は。疲れているのね、というような思いやりの感情には決して変換できなかった。そうした事から思われるのは、関係性の歪んだ受け取り方と、相手への信頼の深まらなさ。実際に会ってやり取りすれば、他の家族に比べて雰囲気はひやっとはしているもののそこまで無残な有様を呈するわけでもないのだけど。
「壁の穴」で、きのこと焼鮭のスパゲティーを食べる。

帰りに、可愛い洋服に手が伸びるのを制しつつロフトでポストカード。最近誰かに(といっても大体が親戚の子なのだけど)送ってみたくて楽しくなる。しかし当分送るあてもないのに、Happy Birthdayなんて書かれたものまで。

職場に提出するレポートに取り掛かろうとペンを持ってしばらく考えた末、ペンをしまう。相変わらず地域密着型サービスについて解説していて、目新しさがない。なので無理にでも捻り出さないと用紙が埋まらない。何にでも(どんなに退屈な事柄にでも)何かしらのポジティブな態度を捻り出せる事を私は以前は称揚していたが、それは実はさほど凄いことでもないのかも知れない。
多分、少しでも具体例を引っ張ってきたら物凄く面白いんだと思うよ。大体、地域地域と言うのなら、特養の外に出る事がなくても地域へ開かれた感じを職員も利用者も皆が実感できるような、柔軟な場を作って欲しい。

日記を書くのもどうでもいい気分だったけれど、鬼束ちひろの「嵐ヶ丘」という曲を聴いて少し気を取り直す。ギターのゆるやかな曲。だけどやっぱり色々めんどくさい。少しの間一人でhydeの歌真似とかしていたけれどすぐに飽きる。あまり曲も聴きたくないし些細な事に腹を立てるのさえ忘れた。何にもしたくないな。
妹と三条で待ち合わせて、敬老の日のプレゼントを当日になって買いに行くというぎりぎりっぷり。おじいさんには京都で作られた吟醸酒(大吟醸との違いを店員さんに尋ねたら、酒好きには吟醸の方がいいと言われてなるほど〜と酒を飲まない姉妹は思った)とこの季節にできたお酒とを松茸の佃煮も試食しつつ追加して詰め合わせてもらい、おばあさんにはつい仕事がらみの発想がなされてしまうのだけど、薄手のブランケットと枕にも使えるかなと思いつつ羊の形のクッションとを選んで配送を頼んだ。早くても22日にしか届かないらしくてうーん…と行動の遅さを後悔する。

ところでクッションはロフトで買ったのだけど、1Fのキャラクターグッズ売り場にはキューピーが色んな者・物に強引に扮されているマスコット(写真のような)が並んでいて、その中の「ビジュアル系キューピー」に目が留まった。ビジュアル系ファンを主に服装でもって殊更に標榜していこうかなどと最近思っている私なので(音楽的な趣味で言えばそれほどでもないのに――だけどその世界の特殊さをネタとして愛でたくもある)買ってみたくなったけど、黒い口紅と長い金髪のために一見してキューピーっぽさが薄れていて微妙だったのでやめた。例えるならインディーズの、自意識だけ高くて一昔前のセンスから抜け出せないどうにも売れなさそうな(笑)バンドマンっぽい出で立ちでした。
妹は全身を餃子の皮で包まれた餃子キューピーに目が釘付けで、「なんかグロいよそれ!」「グロいって何がよ!」と盛り上がれて面白かったです。そんな感じでささやかな鬱屈が表面化しない程度に毎日楽しく平穏無事に過ごせています。
子供の時から、何故お母さんはお姉ちゃんだけひどい扱いをするのだろうと辛く思っていた。泣いた事もあるよ。好きで変わったふうに生まれたわけではなくて、それでも自分なりに頑張っていたと思う。私はお母さんの言う事に昔から違和感はずっとあったけれど、子供だったからその事に自信がなかった。でも今になって、やっぱりお母さんが変だったんだとわかった。

…自分の手で自分への言葉をこうして再掲するのもためらわれはするけど、妹が母にそういう事を言ったらしい。それを母から聞かされて、どういう会話の流れでどういう思いから発せられた言葉なのかはわからないのだけど、気まぐれにでも私サイドに立ってくれる身内がいて、しかもそれが妹である事に驚きと複雑な気持ちとを味わった。

その言葉を反芻しながら地元駅のホームに立ち鬼束ちひろを聴く私は、悪い癖で自然と感傷的で自意識過剰になってしまう。おそらく私はこれまでどおり平気な顔で生きていく。あの家庭(家系)に、そして都会ではなく田舎に生まれ育ったという事から私が受けた大きな影響を、しずかに内包できるような生き方の方向へと順調に漕ぎ出せるだろうか。
常に最良の選択肢を選び続けないといけないなどと言う事はない、と体験を通じて折に触れて確認して、それが小さな堆積となりいずれ私のねじれを回復させるのではないかと期待しつつ。体験に飲まれるのではなく、その上に立っていきたいのですけど。

悲しいので彼に甘えたいけどまだ実家から帰ってこない。母の弟である叔父さんは母と照らし合わせても重なるポイントが見当たらないほど、からっとした人柄なのは何故なのだろう。帰りに思わずpageboyで猫柄の淡いピンクのブラウスを買ってしまったので、またライブに着て行きます。手持ち無沙汰でついちびちびと髪を切ってしまう。
7月10日の日記
四条で山鉾(多分長刀鉾)の組み立ての光景を見かける。釘などは使わず全部縄だけで組み立てるとか何とかテレビで言っていた記憶がある。もうすぐ祇園祭。

母からお盆のことなどで電話。最初の方は普通に受け答えしていたが、やっぱり相変わらずな部分がぐいぐい前面に出てきてムカムカする。ある事に対して「私にも色々主張する権利はあると思うけど?」と言うと「いや、ないと思いますよ?」と半笑いで言われたのが物凄く癇に障った。そりゃないかもしれんけども。それにしてもこの人は、相手を人格を持つひとりの(自分とは切り離された)人間として認めるのが、同年代の人並みにはできないのだな、という事に思い至る。こんなことでキレる私もまだまだだ。今の私にはもっと大事な人やものがあるのだから、大らかに構えていたいものを。いつまで続く、家族との不和。一回「死ねや!」と吐き捨ててしまいたいけれど、それは人道的でないし一時の衝動だし自分でもなんかおかしいと思う。何より、そこまで親との関係に以前より執着していないから。
電話を切ったあとベッドに踵落としを何発か食らわして、それでも発散されないのでヘッドホンでムックをガンガン大音量で聴いて落ち着く。仕事行ってこよう。
6月24日の日記
父と母が来る。妹が合流してからサンマルクで昼ご飯を食べたのち一家で詩仙堂を観光。高校の漢文で習った杜甫とか白居易とかの肖像画があって何だか懐かしくなる。

うーん、父と母って根本的にはあまり性格が合わなかったんだろうなと思わされる場面がいくつか。母の「私は結婚する前は運がめぐってたんだけど…なんでかねえ」みたいな嘆きを聞かされてまたかと少し呆れる。
幸せな結婚、という世間での言い回しは漠然としていてよくわからない。そんなものはないのでは?と思ったりもする。これはきれいごとだけど、お互いに自分の主張ばかりを正当化しないように、一人の人間として最低限の礼儀を忘れないように、思いやれるように、と自分を律していけたらと思う。これだけ一緒にいたら色々ムッとする瞬間もそりゃあるけど。まだ今のうちなら、きれいごととされることも、多少は信じておいていいような気がする。酒飲み暴力男に引っかかったわけでもないくせに、夫のせいで自分の人生は…とか嘆きたくない、できれば。
私はむしろ父の方が、(見てて嫌気がさす時もあるけど誰もが人間ができているわけでもないし)他に一緒に人生をともにしてくれるもっと良い女性がいたのでは?などと思う。むしろ母に我慢できる寛容な男性ってそんなにいないよ、と個人的な感情を抜きにしてもそう感じるのだけどな。
女は同性に厳しい見方をする、というのが私にも当てはまるのかもしれないけど、それにしても父の扱われ方ってあんまり。

なんか家族が顔を合わせる場に臨むと、つい屈折したことをだらだら考えてしまう。この家庭は母が思っているような、種が健全に育つ土壌でありえた時代があっただろうか?などと。
・・・・・・・・しんどかった17日の携帯メモより・・・・・・・・

日曜日の事に関して全く両親から連絡がこないので、結局どうするのとメールを送ると、都合が悪くなったので来週にするとの返事。なんだ…なら連絡してよ。
その事で母とメールしていて、夫婦の絆というものが垣間見られて驚いた。え、そんな感情があなたにあったのですか。それを結託して娘二人を敵とみなすニュアンスのある「絆」だと感じた事は、さすがに意地が悪すぎたと反省してあとで打ち消したが、「育て方を間違えたやろか」という母のたびたびの嘆きは、常に反語的にしか問われなかった事を思い出した。

折を見て早くこのやり取りを中止したくてたまらなくなった。まるで思春期の子供のように、「産んでくれなんて頼んでない」と馬鹿馬鹿しくも叫び返したくなる。そういえば私の心などというものは二の次だったのだ。コンプレックスがまだこうして隠れて根を張っていたとは…がくっ。
今の私は昔の事をいくら思い出してもそれを消化(昇華)しきれない。だから忘れたふりをさせてもらいたい…。両親の年代で考え方が劇的に変化するなんて事はないだろう、だから私がさっぱりと毅然と生まれ変わるしかないのだ。
(メモここまで)

今手伝っているユニットには乱暴な介護をする職員さんが一人だけいる。周知の事実なのだけど、本人はその事や自身の乱暴さに無自覚なので実は一番敵に回したくないかも。食事介助なんかもとにかく詰め込め!って感じで行うので、「そんな事しなくていいですから」「後は私がしますので」ととうとう口走る。一応私は手伝いの身だし、その人は二回り以上年上でもあるから、意見する事をためらわれるのだけど、でもされる側からしたらやっぱり苦痛だろうしおかしいじゃん。
この日は元いたユニットで、食欲のないお年寄りにリクエストされて握ったおにぎりが思いのほか喜ばれて、そういう時はちょっとしあわせ。
■気分のぬるぬるは、職場行ってなんと夏期ボーナスが出ていると上司に教えられて、ありがたさに浮かれるとともに一瞬ではあるけど解消された。
単純!
去年常勤だった関係で貰えるとか。しかも明細見ると二桁万円…びびった。分不相応でほんとすみません。感謝します。過去に間違いで出た事があったらしく、念のため総務に問い合わせると、調べておきますとのこと。すぐにわかる話ではないのか、と思うと少し不安。
上司に相談を持ちかけて、来月からところどころ八時間勤務に入れることになる。ちょうどアルバイトを追加で雇う予定だったそうで、私が入れるならその方がずっと望ましいと言ってもらえる。
■別の職場探せと(先輩からもお金の心配をされ、正直それはしんどい)親にやいやい言われるが、新しい環境に入れば絶対と言っていいほど数ヶ月は鬱々となるし、それに今の職場は尊敬できる人が沢山いるからできれば離れたくない。どこかの味気ない職場で余所者みたいになって生活費を稼ぐ事のみに汲々とするのを想像すると、金銭的に限界が近づくまではここで時間を徐々に増やしながら働きたいのだけど、確かに甘いと言えば甘いわな…。

■滅茶苦茶に潰れる寸前で持ち堪えて十何万かのお金を稼ぐ事の方が、親に対しては後ろめたさがなく真っ当な道である気もする…でもそんなの本当は嫌だ。今回の件で親は私の身を案じてくれていたのかと嬉しい驚きに包まれたのだけど、小康状態になれば再び人並みかそれ以上を要求する…そんなに働かなくてもいいと言ったり努力しろと言ったり…ダブルバインド?(違うか)まあ年中小康状態みたいなものですが。
素直に文字どおりにとるのであれば、稼ぎが減って今度どうするのかという至極まっとうな親の主張。裏を読んだり拡大解釈してみたり(そして被害者意識に酔ったり)する悪癖は確かにいくらかある。素直な心がないんだよなあ…。

■ふと思ったが親は私が人より社会適合能力が劣る(自分で断言するのもいやらしいが)ことを知らない、というかそういう方面に疎くて鈍いから、ちょっと落ち着いたとみえれば何の悪気もなく次を要求するのか。
確かに私は親に自分の十分の一も見せていない、仕事の辛さも面白おかしくしか伝えていなかった。信頼して全部を開けっぴろげにしている相手は彼だけではないか。滅多打ちに潰れているさまや生々しい感情はあまり人には見せたくないから、そうして誤魔化してしまう。多分これからもそうだろう。孤独を気取るのは好きじゃないけど(昔はそんなふしもあったけど)少なくとも親とは腹を割って付き合う事はないだろうと漠然と思う。
■私がまだ知り合っていない頃に彼が、ある事がきっかけで夏休みの二ヶ月間を実家に戻って引き篭もった時の、お母さんのゆったり構えた接し方の事を聞かされて、家族も色々だなあと思う。こちらが態度に気をつけてさえいれば、うんざりするような姑苛めにはあわなさそうでほっとしている…。うちの母が嫌な事言ったらごめんね…。
父から珍しく電話、と思って出ると、仕事のことについて色々言われる。
その言い方や内容にムカムカっときて、電話を切ってしばらく我慢していたものの我慢できずに手近にあった空のペットボトルをとって壁に投げつけてしまう。

確かに私は、生活できる程度の稼ぎがあって初めて人として正当に扱われる、という考え方をしているところがあり、だから私は三月まではそうだったかもしれないが今は発言権も何かを夢見たり計画したりする権利もないし、楽しみに浮かれていい身分でもなかったのだ、ということを思い出してしまう。そしてどっと無力感が押し寄せて心の中で膨れ上がる。

私はもうひとりではないはずなのに、何故かそういう気がして、十代の頃のいじけ根性やあの独特の感じがよみがえる。「死ねよ、死ねよ」と言う奴はいったい私の中からいつ消えるのか。

ともかく彼に話を聴いてもらう。聴いてくれる誰かがいることが、かけがえのないありがたい宝物であると静かに感謝するけれど同時に、何でこの子が私なんかと一緒にいたり将来を決意してくれていたりするんだろう…とまたもじめじめと考えてしまう自分。

父が一番気にかけているらしかったお金のことは、食費に関してはかなり削減できているし他の買い物も最近ほとんどしない(服でさえ3月頃以来買っていないと思う)し、少しの間は大丈夫と思うけど、まあそういう問題ではないんだろうな。
まああれだな、ちょっとは建設的に悩んでみろ自分、話はそこからだ、ということだな。今日はともかく早いこと寝るに限る…。
母から父の健康診断のことでメールあり、急に不安に襲われる。脳に不安な箇所が見つかったとかどうとか。
そして同時に早とちり開始。

もしかしたら思っているよりも近い将来、脳梗塞か何かで倒れた父を介護する日がくるかもしれないと思い、ブルーになる。やっと人生をいくらか前向きに見られるようになったこのタイミングで?と。だけどそれは母も同じだろう、わけのわからない姉妹のうち姉がやっと人並みに丸くなって付き合いやすくなったというのに、という感じではないかなあと思う。
妹は頭の中が哲学や思想や仏文やらでいそがしい年頃で、妹の性格上、ましてや通っている大学を思い浮かべれば、いきなり現実的実践的な世界に身を置かざるをえなくなるのは彼女には屈辱的だろう。
「介護=家族がするもの」以外の道を思いつけない(ましてやそういう考え方の根強い家系にあっては)ので、とするといつか実家に戻るべきなのは私なのだ、と思うと憂鬱。

もう一通母メール到着。それによると妹は、お金の心配の必要性を母が第一に言っているのかと受け取ったらしく、母をがっかりさせたとのこと。いくら大学生でもそこまで欠けているか!というのと、ほらやっぱり適任は私しかいないんじゃないか!というのとでうっとなる。ショック。妹に対しては私が訳知り顔でものを言うのは何かおかしいと思う。でもせめて、少しは人の機微を解しなさいとか何とか鬱陶しく説教するかわりに、この(メールの)文章からこの人物(母)の意図を読み取りなさいというふうに、生身の感情からつきはなして国語の問題チックに言ってみるくらいがぴったりだし反感も買わない気がする。ともかくううーと滅入る気持ちを隠して返信すると、すぐにメール返ってくる。

それを読んで早とちり終了。
結局私の上のような不安もずいぶん飛躍しすぎたものだったことに気付かされる。介護するのは、というかあの地元に戻るのはせめて四十代以降ぐらいにしたいよ…。
先日両親が来て、琵琶湖周辺のドライブに連れて行かれる。連れて行かれる、というと強制的なニュアンスが引っ付いて少しふさわしくないけど。

その前の母からのメール攻撃に参っていたのだけど、実際に顔を合わせるとそんなに色々と執拗に訊かれることもなく、安堵する。
母は「薬飲んででも仕事を優先しなければ…」と私が自らを省みずに職場に押されていると考えていたらしい。で、私はこういう風に考えてますよと、でも現時点では色々ままならない事があるわけですよと話す。
それを聞いて「私が心配していた事はとっくにあんたも考えていたのねえ」と、娘が色々と冷静に考えていた事が意外だった様子。一応それについては安心してもらえたよう。
母としては彼に感謝の気持ちを一回述べたいそうで(私宛てに来た感謝メールを彼の携帯に転送した事はあるけど)、でもどういうタイミングで会ったらいいものか?私も向こうのご両親に一度挨拶した方がいいのだろうけど…なんて事を時々考える。とりあえず、今の問題が落着かない限りは。

それが一段落して(両親に会うのは結構気が重かった)家にこもって音楽漬けになるのが落着く。聴きながら同じ方の日記を何度も訪れたりしている(スミマセン)。Plastic Treeの余韻にひたったり鬼束ちひろ大量に借りてきたり何故か昔のBUCK-TICK聴きたくなったり。
明日勤務表が出るだろうという想像からいったん逃避したい。
しばらく考えていた事を一旦まとめてみる。

両親に親愛のような思いを抱けた事で、ようやく人並みになれたような気がしてほっとしている。できれば遠ざかりたいものから、少しは暇を作って顔を出さなければ…と思えるものへの変化。松尾スズキ氏の対談集であった「罪悪感でもって子供を躾ける」…結局はその罪悪感にちくちくやられている部分もあるのだろうけど。未だに人の痛い所に平然と触れて恬としている母でもあるし。要は「これだけの投資(あまりよい言い方じゃないけど)をされたのだから、無下にしてそっぽを向くのはどうか…」という。
そういう事について、電車内の観光広告を見てふと思った。思い出を作る、誰かにどこかへ連れて行ってもらったという感じはゆくゆく必要になるものだと思うので。私の子供の頃は休日ごとにとりあえずどこかへ出掛ける事が多くて、それがまた別に楽しいものでなかった場合も多かったんだけど(しょっちゅう喧嘩するし)だとしても大事なものかもなあと思ったりもするので。(だから外出して家族連れを見ると「この人達も別に行きたい所があるわけじゃないのに無理して出掛けてるのかなあ」などと反射的に感じてしまう)

多分両親と落ち着いて話ができたり、前向きな思いとともに実家を思い浮かべられたりするのは、
・物理的、心理的な距離
・彼氏の存在のために精神的に安定している
・社会に出たから
とかの影響があるのかもしれない。自分が急速に世間並みの感覚を身につけ「させられて」いっているとは、うっすら感じるものの、今のこういう状態は単に建前だけじゃないはずとも思う。でも一緒には暮らせないと思うんだよな、結局は。なかなか。
last fmについて、アーティスト名が途中で切れると書いたけど、実家のパソコンで見るとそんな事もなかった。うちのが具合が悪いのかも。

三連休がとれたので昨日から実家に戻っている。
昨日はおばあさんの家に行った。足腰も立たず、胃漏のため口からものが食べられず、その関係で言葉を発する事ができなくなっていて、去年に比べたらぐっと衰えた感じがした。甘い物が好きだったのに今後は送っても無駄になってしまう。なので室内でかぶるぴたっとした帽子かTシャツを、今後のプレゼントとしておばさんに依頼される。
ただ話しかけた言葉に笑顔をたえず見せてくれるのが救いのような気がした。そして自然と仕事の事を心の内に呼び出してしまうのだけど。だから私の場合は、介護職の立場で何かものが言えるかもしれないが、親類としてはどうか?と心もとなくなる。
相変わらず、どこか緊張をはらんだ空気に切れ目のない時間であったような。お互い腹の探り合いをしている風が感じられて、親戚づきあいというのはどこもこんな風に入り組んでいるんだろうか…と毎回思わされるが。

今日はおじいさんの家へ。おじさんがその近くに引っ越すため、新居を見せていただく。羨ましいくらい広い。今時らんまを設けてあるのが珍しくて、思わず目にとまる。
親戚の子はどういうわけか、私に会うのを楽しみにしてくれていたらしい。だけど実家でも寝ておじいさんの家でもうとうとして、寝起きでぼんやりしていたから期待にどのくらい応えられたか。ごめんよ。小額だけどお小遣いをあげて、花札に付合った。

明日は京都で大文字焼きを見る約束なので、早めに電車に乗る予定。ほとんど帰ってこられないのにいいのか…とは思うのだけど。しかし昔よりは両親と屈託無く(まったくとは言わないが)接する事ができている自分を意識する。そういうものなのだろうか。
研修休みを使って帰省中。ひとつにはおばあさんに会うためだったのだけど、「もう別にええんちゃう」と言われてしまう。
じゃあ何で帰ってきたのさ私…。
胃漏をして、でも口から食べる事にこだわるおばさんはそうしていたのだけど、医者によると食道が用をなしておらず気管の方に流れこんでいたという…。施設は姥捨て山と言うし(私には言わないだろうが…)理念ががちがちに凝り固まって、自分の満足感のために介護する傾向が極端になっている気がする。

親戚の子がローカルCMに出ると聞いて驚く。オーディション受けてたらしい。なんか凄いなあ…。

仕事の話を色々と訊かれるのに答える。私はちゃんと納得して決めたつもりだけど、
「でも大手メーカーに勤める方がやっぱりええよね♪」
と、いくらかの同意を示している合間にそういう事を未だに言われると、当然ムカッとするわけで、でも「そんな事言うなら今から京都帰ろうかな」「いいじゃん、ニートにもならずよく頑張ってる娘だこと」だとか軽口を叩いて受け流している。

夕食の買い物に付合う帰りに町を眺めると、皆それぞれ生活を営んでいるんだろうなと当たり前の事に何となく打たれたりする。地元に帰って思うのは必ずその事だ。
何かない限りはここに私が戻る事はまずないだろう。もうここに自分に必要なものがないという事は決してない、ただ欲しいものはないかもしれない。欲しいものは必要であり持たねばならないものでもあるから、微妙な言い方だとは思うけど。

町並みには数年前とほとんど変化はない。地元が発展する可能性はゼロだろうし、母はそれが嫌で京都に来たがっている。私は私で、閉鎖的な土地に皆辟易しつつも細々と暮らしているんだろうと一方的に思い込み、そういう場所に両親二人が取り残されていくというイメージが結構根深く染み付いている、という事にたびたび気付かされる。
そんなわけで、せめて私の人生何だったのかしらと完全には思わせないだけの振る舞いをしなくてはならないかもと思い立ったりする。薄情な言い方だが私が、特に母に対してあたたかい感謝や思いやりを注げるようになれる日はもしかしたら来ないかもしれない。せめて娘はちゃんとやってますよと安心してもらう(実際踏み外してはないはずだけど…エリートではないけどね)ように近況を伝える。余計な言葉を投げつけるのもお互いのためにならないしと思うようにしている。何か親に対して屈託があろうとそれは時間がかかっても自力で解決していかなくては、それが子供の義務なのかもしれない…などと、感傷的になるのではなく(いやどうかな)考えつつある。

なんて調子ぶっこいた不遜な事を、余裕のある時だから思えるのだ…

人や物事全般に関し、私は離れないと穏やかな気持ちを持てないのではとほぼ確信し、そしてその穏やかさは結構虫のいい偽物だったりする。この土地にいる人で、正直好きな同級生や大人はいない。そんな自分の過去の時間の過ごし方が虚しく思える。
だから今後の人生(大げさだろうか)での大きなテーマはそれだなと思う。頼むよ自分
今日はおごりだ、という事でしゃぶしゃぶを食べに行った。来月は3倍返ししてもらおうとか妙な事は言わないので、美味しいものでも食べに行けたら…。
ところで、食べながら互いのお婆さんや親戚の話をした。若くて元気なのに末期がんが発覚した彼のお婆さんに、周りがとてもよくしてくれるという話は訊いていた。もちろん健康な頃から円満にやっていた。今は状態が良い方に向かっているという事だが、お婆ちゃん子の彼がいつかごっそり落ち込むんじゃないかと心配している…そこでもし両者のお婆さんを取り替えても同じあたたかい関係がありえただろうかと、愚問だとは十分わかりつつも訊いてみてしまったのだ。要介護状態かどうかはあまり問題にならないのに、自分が思いやりを持てない理由として摩り替えてしまっていたわけだ…

重度の痴呆持ちの父方のお婆さんは93歳で、私が物心ついた頃には耳が遠く軽い痴呆が始まっていた。耳が遠いのをいい事に周囲が色んな事をお婆さんの面前でやや侮蔑まじりに話す、そんな光景が思い出せる中で最も古い記憶だ。十二月に骨折して入院中だが寝たきりになるかはわからない。だけど先日ついに胃にチューブを通して食事する事となってしまった
敬老の日に誰からもお祝いがなかったという事実にはさすがに驚き、私がお婆さんの好きなチョコレートを贈ったのもいくらか慣習的な側面が強かったのに、そのせいでおばあさんを世話するおばさんから過大評価さればつの悪い思いを抱いたのだけど、父方の親戚は数が多くおばあさんにもっと身近な人はいるはずなのに、とこれは今でも腑に落ちない。

考えてみるとおばあさん自身は性格的に何も悪いところはない。なのにその周囲の作り出す磁場みたいなものに飲まれている自分がいる。その中で、上で触れたおばさんがやや我が強く難しい人で、決して悪い人でない事は断言できるものの、そねみやプライドや世間体や打算めいた感情がややこしく交錯する元にもなっているのでは、と勝手に理解している。我が家も家族ぐるみで会いに行く事は少なかった。大事にされてないわけでは決してないが、人が多い分難しさも増えるのかもしれない。おばあさん=親戚同士の緊張をはらんだ関係、という連想が真っ先に浮かび、賭け値なしに思いやる事はできない自分がいて、それについて後ろめたさや自分への疑念などを感じる。

喪服を用意しておいた方がいいという母の言葉で、足腰は元気だったお婆さんもそういう状況に入ってしまったのか、と思う。縁起でもない、いつまでも元気で長生きする事を願うべきじゃないのかと薄情さを責められるとしたら反論はできない。私もそうあるべきだと思う。ただそれは確かにきれいな思いであるが、親戚の人間関係や私の心は正論どおりに動くことはなかなか無かったように見える。

しかし上のように、親族は思いやるべきという強迫観念的な思いがありつつ、なおもそれへの言い訳を探してしまう、というより何を言っても言い訳にしかならないという思いが一方には消しがたく存在している。「近しい人でしょ?」「でもほとんど想い出がないのに」という両者がいたちごっこのように心の中に存在している。
要はそういう自分のずるさだ。他の人にもできる程度のゆるい優しさで接する事はできてもそれ以上の、理屈抜きの特別で強い思いが湧かない事に関してはどうにもできそうにないと感じ、それをもっともらしく理由付けようとする心の動きの中で、私は後ろめたさを覚えながらも最終的にはあわよくば免罪されればと底の方で思っている…
本当にごめんなさい

自分は冷淡か?いやそうであってほしくない、と絶えず悩みつつも、やっぱり冷たいというか利己的で防衛的じゃないか。
今は何も思わなくても、亡くなった後に何か引きずるような気がする。三月中には顔を見せに行く。
損得抜きで人を慈しむとはどういう事なのか?というのを理屈ではなくちゃんと学ばなければならない、とつくづく思い知った。本当に、それについては人並み以下程度のものしか持ってない
お母さんは人の嫌な感情や嫌な部分を引き出すのが上手いよね、と妹が私に言ったが、あんたも結構なもんだよ。人の触れられたくない所突いたりせせら笑ったりするでしょう。
という事は私にも多かれ少なかれ似た所が、気付かないだけで身についているのだろうという事。
変な家族だと父が言っていた。こんな元旦。

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遠くの神社へ初詣に行ったら混みまくりで、半日仕事になってしまった。あられが降ってくる。
おみくじは末吉だった。妹も末吉。今時凶って入れてるんだろうか。

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寝言で「どうしようどうしよう」と連呼していたらしいが、全く夢の内容を覚えていない事が多いので、私はどんな夢を見ていたのかと、知り得ないだけに不思議な気持ちになる。
それより左頬が引きつるのを何とかやめさせて下さい。唇を尖らせるのも。好きでやっているわけではない。当たり前だろう。これじゃ逃れようもなく変人ですよ。薄笑いしてないで

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初めの事に話を戻すと、いい加減読んで下さる人もうんざりだろうが、実家にいるとこんなネタに集中してしまうのです。進歩ねえですが。
いい加減鬱々してきた。京都に帰ればと言うしできたらそうしたいが、多分しばらくいるだろう。あと三日ほどの平常心平常心
しかしはたと気付くけど、私のやっている事は私が忌み嫌う当人とほとんど同じではないか?と。世の中の薄情に虐げられ不幸を気取るような顔。愕然とはしない。これまでも私は何度も同じ事に気づいてきたからだ。そのたび改めようとはするが結局同じところに戻っているのである。駄目だな。勿論呆れはする。
抜け出そうと何度もするけれどなんか染み付いたものがあって、要は全部因果関係を一つの所に見出そうとすると、癒えないにしろ気持ちがいいんだな。本当の意味で傷つかなくて済む気がするし。それがわかっているのなら、難しくても人のせいにできるだけしない。これを今年は何とか浮き沈みしながらも貫けるように努めたいよ、頭より先に湧いてくる感情の克服はまた別の課題として取っておくとして。もういい年なんだからね

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理想と実際の行動とが違うのが後ろめたく、今日も凄いメールを一方的に何通も送りつけてしまった。あたたかい言葉をかけながらも途中で放置されるのがしんどいのは向うも身にしみて知ってくれているはずなのにそれをまたやる。眠いんだよね、わかってる。わかってるよ。でも頭でわかっていてもどうしようもないものがあって、それに振り回される事やわかったとしてもどうにも解決できなさそうな事や迷惑をかける事やその他たくさんの事が辛い
もうちょっと情緒を安定させなければ、激情にまかせてメールを送るもんだから後で冷静になって読み返して蒼白になる。こうして続けていく事でかえって相手を壊しはしないかという思いに発作的に駆られるし、それはきっと正しい警告なのだろう。そうして相手を自分のつまらない事で駄目にするのが怖いよ、私がひとでなしでもね。実際そうなってからじゃきっと遅い、怖いなんて思いでは済まされないよ
でも一度コントロールがきかなくなると何もわからなくなる、何で私はあんな風にするのか、自棄になるのか。ある種の子供のする試し行為みたいな事をやってしまう。興味のない人間にはそんな事はしない。ちゃんと制御して安定した自我で円滑に関係を進めるよ。だけど真剣にその人と今後つながりを持ちたいちゃんとした関係を築きたいと思うとそうなってしまう、そしてそれはきっと相手には迷惑なものとして映る。当たり前だ

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私はどうなりたいんだろうと、物凄く怖くなったり心配になったりする
馬鹿みたいに書くだけ書いて、寝ます。何だこの軽蔑に値する未成熟さは。よく喋るな
仲良くやってます、というのは数時間後に前言撤回する事になったが、新年早々、という気もするけど別にいつだって関係はない。こうなるのはさほど珍しくはない。やはり遠く離れていてこそ関係が保てるものなのかもしれない。
何故もめなくてはいけないんだろう。

数あるサンプルの中から悲劇的で惨めなものばかりを選び取って目の前の提示し,希望や気力を根絶やしにしようとする目的は未だにわからない。単に性格から来るものなのか
くそまじめに私がそれを信じ込みすぎたのが悪いのか、でも子供の頃って結構親が絶対じゃんねえ
世の中には希望的な結末もあるという事を早いうちに知っておきたかったですよ

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おばあさんの事がメインで、あと他の事とで家の中が多少ごたごたしている。そういう所にいるとああああ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!!と心の中できりなく連呼したい衝動に駆られる。
母が拾ってくる情報や感情の断片は荒んだものやフィルターを通されて穿った見方のものばかりで、腹の中がもやもやぎちぎちして真っ黒になりそう
親戚の人で物凄く気立てがよくて親切で非の打ち所がない人がいて、母もその人に色々よくしてもらっているのに、なおも「あの人料理しないのよ」とかあら探しをしようとする、その精神はどこから?何で?

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首を小刻みに振ってからでないと何にも取りかかれない最近の傾向を、気にならないかと以前聞いてみたら、大丈夫だと言ってくれた。鈍感なところがあるので気付いていないだけという考えもできるが、そういったところに助けられる。
本人曰く、彼も子供時代はたいがいな子だったそうでそれは現在の挙動を見ていても多少納得させられるものがあるのだけど、それは置いといて、親はあたたかく辛抱強く育ててくれたと言っていた。おばあさんが重い癌だが家族が協力してとても良くしてくれるから病状は安定しているそうだ。そんな諸々の話を聴かされる。彼は人を悪く言わないから、外からじゃ何もわからないから、多少は割り引いてみるとしても。
あの人は家族と一緒にいたいと思えるのは幸せな事なんだねとこぼしたが、悪いのは環境ではなく私自身の欠陥だとも言える。比較するのも無意味すぎて話にならない。ただそうしたくなる心情はどうしようもない。彼の家族についての話を聴いていると、私もそこの子にしてくれよなんておふざけの残り半分は本心でそう思ってしまうのだ

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私への慈愛の精神はないの!?となじられ、んなもんあるかいなと思いながらこの環境でどうやって学べと?と返すと、外で学べるでしょうがと言ってきた、もっともだ。現にそうしようとしてるし、ごく僅かながらできそうな希望を持ちつつある。本当に僅かだとしても。私の身近にいる数人の人達には本当に感謝してもしきれないくらい、私に影響を与えてくれた。
ただ自分の事もきちんと大事にできてないのにそんな懐の深さはないよ、私がそれに近い思いに満ちて接する事ができるのはただ一人と、おおまけに負けてあと数人とだけだ。私はその人のおかげで人への肯定的な目を失わずにいられている。私がこんな事を書けばうそ臭いのではと自意識過剰ぎみに感じてきたが、愛情の向け方が非常に偏っているにしても私はその人の事は本当に大切にしたい、しなければと思っている。色々受けとめて行きたいと思っている。だからあなたに同じ事をするのはまだまだ無理だ。未熟な私はそうしたいと自然に思いが湧いてこない。
しかしこの親にしてこの子あり…って事なのか

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もっと私に人を肯定的に見させてください、圧倒的にそういう心が足りていないんだ、多少強引でもそうやって見ていかなければ駄目になるんじゃないかと怖れているんだよ
なんかこれが続けば本当にすみずみまで真っ黒になりそう、でも昔と同じ状況に戻ったってだけなんだけどさ

早く京都に帰りたいな
プレゼント交換や東福寺観光などのひとときがありつつ、29日から実家に戻っている。試験勉強の道具を持ってきたのを眺めつつ、おせち作ったり晩御飯作ったり正月の準備したり妹に大富豪に付き合わされたりする。むしろそっちがメインに。
自分の人生を生活の雑事によって台無しにされたくないそうな…でも生活を捨てる事はどうしたってできないでしょうに、と思いつつ、そう思うようになるとは自分もちょっと物分りがいい分つまらなくなっているんじゃないかと、引っかかるものを覚える。
若さゆえの頑なさを捨て去れたわけではないが、今の私は自分のなくしたものに憧れの視線を注いでしまう

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我慢強くなったわけでもなく、ただ世間が喧しくこちらに吹き込もうとする不要な、だけどそう完全に落ち着き払って片付けられなくて癪に障る色んな事を受け流す方法を身につけつつあるだけなのだ。田舎にいるとそういう事が多くて性に合わない。では済まないんだろうな
京都にいると感じずに済むというだけで、やはりこうして実家に戻ると世間のしがらみというものの雰囲気をもろに食らってしまう。一つの監視システムの中にいるような気持ちが抜けないのは、過去の時間の過ごし方が上手くなかったせいなのだろう、それは誰のせいでもなく、仕方ないよ
無感覚でいられる事の有難さと楽さ。と同時に上に書いたような憧れと惜しさと危機感を少し感じる。自分は大丈夫だと思っていたけど丸二日目にして一瞬ひそかに臨界点に達してしまった感じがする。
みんな忙しいな

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おばあさんが転倒して大腿骨あたりを骨折したとの事で、両親が朝早く病院に出かけた。年明けに手術だそうでお見舞いに行ったらまた詳しい事を書きたい。なのに心配はしつつもどこかドライでいるのは、おばあさんにまつわる思い出がないに等しい事を私は内心その理由にしたがっているけど、それもおかしいよなあ。
重度の痴呆だけど足腰だけは丈夫で、デイサービスセンターでもにこにこ座っているいいおばあさんだったとの事で、痴呆になったら地の性格が出るというのに、おばあさんは元からが穏やかな人だったんだねえと母が言っていた。そうか元気なんだと嬉しく思ったが、それはどこか自分が遠いところにいるから覚えられる無責任な感情に近いものなのではないかと勘繰ってみる。大腿骨という事は、寝たきりになってしまうんだろうか

病室で、おばあさんを世話しているおばさんは看護婦さんの前で殊更に優しい自分を演出し喋りたて、そんなんいくら横でわめいても迷惑なだけで意味ないやんというのが母だったらしい。おばさんは虚栄心だけで動いているわけではないし、だとしてもいいじゃないかと思うが、どちらに賛成したいとも思わない。それから私はどちらかと言うと母の冷たさを引き継いでいるなと嫌になったが、その冷たいのが自分の一部だという事は事実だから蓋をしたらいけない。
来年はそういうのをいい加減人のせいにしないようにしたいよ。しなくては。今年はそういう自分可愛さの心理パターンに何度も突き当たる事が多くて、そのたびにいけないいけないと思いながら都合の良い方へ流れてしまっていた。育ちを一つの要因とする事はやめないけど、いつまでも人のせいにしていれば片付くとひとときの安心を得るなよ自分
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色々と思うが大半は平穏に過ごしているわけで。仲良くやっています。
母は今に至るまで私の事を思っていなかったのではなく、ただ偏っていて自己愛が多少強いだけだったのだ、と思ってみるが、そういう視点は自分には必要な気がする

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すみません、こんな感じですが来年もどうぞよろしくお願いします。
帰宅。贅沢にもJRに乗る。
帰省中は父に付き添ってもらい一年半振りに車の運転の練習をしたり、何もやる気がせずかといって見る場所もないので自転車で岬まで行ってみたりして、特に何もなく過ごした。
親戚に会う事になっていて、こんな状態で絶対無理だと思っていたのだが、今後6歳になる親戚の子の遊び相手をしてちょっと元気をもらってきた。川でタニシやアメンボ採ったり手つないで出かけたりトランプしたり。
えらく可愛いです。基本的にあまり子供は得意ではないけどこの子は可愛くてこちらも楽しくなる。しかも心なしか妹より私に懐いてくれるのが嬉しいという。でへへ。
でももう少し大きくなったら付き合いにくくなるんだろうなあ。

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しつこいですがこの話は。
母は人間的にどうも尊敬できない。自分の失敗は良いが他者の失敗は許さず、何度も何度も飽きずに本人の前で過ぎ去った過去の汚点を(物心付く前の出来事まで)引きずり出す。他者を貶め噂をしてはせせら笑う一方で自分を哀れむ事しか頭にないように、少なくとも私には見える。
思うが母は別に子供は要らなかったのではないか。金労力時間、投資みたいな物で、要は暴落したって事なのだろうし失敗だと言われれば仕方がなく、そうなればお荷物以下でしかない。でもまあ無条件の愛情とかそこにいるだけでいいとか嘘臭いしねえ。他所にはあるのかもしれないがそれを受けるのに自分はふさわしくなく思え、かえって条件付きの方がまともに思える。

もっといたわれ思いやれと言うが(そういう時だけ私が福祉の勉強中な事を都合良く持ち出し盾にする)、得られないからと言って私があなたに同じ要求をした事があっただろうか。何なんだろう、荒れるでもなく表面上は普通に接してきたつもりなのだが。
いたわりに近い思いが起こる事も全くないわけではないが、それにしたって自分が都合良いように育たなかった事への申し訳なさと後ろめたさ(反面そういう感情を私が持つ必要はないと思っていもする)だったりする。

などと言いながらも経済的に頼っている以上は文句は言えないという思いが根本にあるわけだが、それならその対価として何を支払う事になっても甘受すべしという理屈になるのだろうか。通常の人間関係でなら不適切な言動でも親子間でなら通ってしまうのは何故なのか。

家の中では思い切り笑う事が少ない。乾いた笑いや、自分や他者への嘲りが含まれているような笑いに自然となる。気付けば妹もそんな風で嫌になる。姉妹の間では、母を反面教師とする方向に意見が落ち着いている様子。
顔色を伺い言葉の裏を常に読み少しの物音に怯え自分への無力感を強め、そんなものが家庭なのか。程度の差はあれどこも似たり寄ったりなのだろうか。

以前新聞で読んだ、名前は失念したがデザイナーだか作家だかが、今まで自分にかけられた養育費や学費などを計算した総額分を両親に返して縁を切ったというエピソードが脳裏に甦り、凄い話もあったもんだと、流石にそれは相手の気持ちを考えるとどうなのだと当時は思ったが、それがその人なりの決着の付け方なのだろうしそういう方法もありなのかもしれないと思い直す。

車内で「delayed」のメロディーに癒されつつ深呼吸をする。
要は甘いんだわねえ。
まあ一生言ってればいいよお前も私も。

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繭

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