mothercoatというバンドのアングルという曲を視聴したら結構いい感じだった。
が、最近大抵のものに触れても昔ほどの感動が得られない事が気にかかっている。やっぱり十代の頃に触れた音楽や本って思い入れが特別なんだろうなあ。そんな事を思いながら、当時没頭した音楽や詩集を取り出して、文章越しにその頃の、些細な刺激にも過敏になれるやたら思いつめた表情を呼吸してみたり。私にとっての十代はそういう意味においてのみ充実した時代だったと思う。
時々頭の中が煮詰まると、私が突然失踪したら誰が捜すだろう?とやや反語的に想像してしまう傾向が以前からあって、私はそれに「悪癖」とラベリングすることでかろうじて周囲への申し訳としているつもりなのだけど、では仮に、本当に誰も捜さなかったという身も蓋もない結果が実際に露呈されたら?または反対に追ってきてくれる誰かの存在を認める事になったら?と続けて自問してみると、うーんと黙ってしまう。要はどちらにしろ、その結果または他者と向き合うという事を先延ばしにしてできるだけ避けたく思っている自分がいるという矛盾だ。どうしたいのだろう?しまいには、感傷的な少女趣味も結構ですが、ではそれは近しい人を信頼していないという事ですか?と諌める大人な部分が出現してきて、はじめの問いが何だか白々しく思えてくる。確かにその通りなのだけど、そういう事ではないのだ。そしてその白々しさが、切り離せない私の根っこなのだけど。
**********
今日も念のため職場には来ないようにとのことで休み。明日から復活。元気にはなったんだけど、私の調子がどうこうというよりは職業上しょうがないか。
夕方から府立図書館に出かけるが、移動手段にバスを選んだのが失敗だったのか、途中から修学旅行中の子供たちがわんさか乗ってくる乗ってくる。男の子の方なんかは粋がった風で騒ぐ騒ぐ。うんざりした。夕暮れ時の平安神宮は風情があってよかったが。借りた本を整理しようと鞄を置いたカウンターには何故かpaxil10mgと書いたアルミ箔のシートが転がっていた。
家では雑炊ばかり食している。
が、最近大抵のものに触れても昔ほどの感動が得られない事が気にかかっている。やっぱり十代の頃に触れた音楽や本って思い入れが特別なんだろうなあ。そんな事を思いながら、当時没頭した音楽や詩集を取り出して、文章越しにその頃の、些細な刺激にも過敏になれるやたら思いつめた表情を呼吸してみたり。私にとっての十代はそういう意味においてのみ充実した時代だったと思う。
時々頭の中が煮詰まると、私が突然失踪したら誰が捜すだろう?とやや反語的に想像してしまう傾向が以前からあって、私はそれに「悪癖」とラベリングすることでかろうじて周囲への申し訳としているつもりなのだけど、では仮に、本当に誰も捜さなかったという身も蓋もない結果が実際に露呈されたら?または反対に追ってきてくれる誰かの存在を認める事になったら?と続けて自問してみると、うーんと黙ってしまう。要はどちらにしろ、その結果または他者と向き合うという事を先延ばしにしてできるだけ避けたく思っている自分がいるという矛盾だ。どうしたいのだろう?しまいには、感傷的な少女趣味も結構ですが、ではそれは近しい人を信頼していないという事ですか?と諌める大人な部分が出現してきて、はじめの問いが何だか白々しく思えてくる。確かにその通りなのだけど、そういう事ではないのだ。そしてその白々しさが、切り離せない私の根っこなのだけど。
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今日も念のため職場には来ないようにとのことで休み。明日から復活。元気にはなったんだけど、私の調子がどうこうというよりは職業上しょうがないか。
夕方から府立図書館に出かけるが、移動手段にバスを選んだのが失敗だったのか、途中から修学旅行中の子供たちがわんさか乗ってくる乗ってくる。男の子の方なんかは粋がった風で騒ぐ騒ぐ。うんざりした。夕暮れ時の平安神宮は風情があってよかったが。借りた本を整理しようと鞄を置いたカウンターには何故かpaxil10mgと書いたアルミ箔のシートが転がっていた。
家では雑炊ばかり食している。
一晩たって思うのは、私はやはり色んな事に自信がないんだなあという事。
私にとって、気持がくじけた瞬間の記憶というのは残りやすいのだけど、認められているという雰囲気を欠片でも受信するのは難しいのかもしれないという。それどころか私は、余計な情報ばかり拾ってしまっている。
私は私自身の存在を初めからなかった事にしたい、という本音は普段の生活や時々の明るい気分などに紛れて底の方に沈んではいるが、それが何かの拍子で顔を出してきて厄介だ。生きて在る自分というのをきっぱり引き受ける事はまだできないのか。
自分は色んな軋轢を引き受ける掃き溜め的な存在であるべきだと、半分は意識的に気取ったポーズとして半分は本気の考えとしてそんないじけた態度をずっと昔の私はとっていた。
当時の私の事を思い返すと、感傷のにおいが何よりも先に鼻について嫌気がさすようになったけれど、気分が塞ぐとついそんな思考のなかにはまりこんでしまう。何があってもじっと我慢していろよととにかく言い聞かせている。
でも結局は感傷なのかなあ。そんな自分がかなり気持ち悪いなあ、とも気付いてはいるのだけど。大体、本当に引き受ける事を選ぶのならあとで色々こぼすのは潔くない。
自分では精一杯やっているつもりでも周囲から見ればどうなのだろう。と、決定権を全部周りにゆだねてしまうのが、良くないのか。
いつになってもうじうじがなおらなくて駄目だね。
ああもう、うだうだ言っているうちに11月。
私にとって、気持がくじけた瞬間の記憶というのは残りやすいのだけど、認められているという雰囲気を欠片でも受信するのは難しいのかもしれないという。それどころか私は、余計な情報ばかり拾ってしまっている。
私は私自身の存在を初めからなかった事にしたい、という本音は普段の生活や時々の明るい気分などに紛れて底の方に沈んではいるが、それが何かの拍子で顔を出してきて厄介だ。生きて在る自分というのをきっぱり引き受ける事はまだできないのか。
自分は色んな軋轢を引き受ける掃き溜め的な存在であるべきだと、半分は意識的に気取ったポーズとして半分は本気の考えとしてそんないじけた態度をずっと昔の私はとっていた。
当時の私の事を思い返すと、感傷のにおいが何よりも先に鼻について嫌気がさすようになったけれど、気分が塞ぐとついそんな思考のなかにはまりこんでしまう。何があってもじっと我慢していろよととにかく言い聞かせている。
でも結局は感傷なのかなあ。そんな自分がかなり気持ち悪いなあ、とも気付いてはいるのだけど。大体、本当に引き受ける事を選ぶのならあとで色々こぼすのは潔くない。
自分では精一杯やっているつもりでも周囲から見ればどうなのだろう。と、決定権を全部周りにゆだねてしまうのが、良くないのか。
いつになってもうじうじがなおらなくて駄目だね。
ああもう、うだうだ言っているうちに11月。
昨日の夜中に思い出していたこと
2006年7月27日 煮え切らず彼のアパートにいた数ヶ月前のある夜のこと、コンビニに出かけようとアパートの一階に下りた私達は玄関のガラス戸越しに、目尻と口の端から血を流しながらよろよろとこちらへ助けを求める二十歳くらいの男の人と出くわした。「じ、事件だ!!」と私は咄嗟に思ってかなり動揺したのだけど、話を少しだけ聞けたところによると、自転車を走らせている最中に癲癇の発作が出て気を失って転倒し、しばらくそのままだったがふと気がついて何とかアパートまで戻ってきた様子だった。
きちんと止めるのもままならずに投げ出された自転車をとりあえずどけて、本人の求めるとおりに救急車を呼び先導するという初めての行為に緊張しつつ無事に救急車が走り去ると、実はその人が偶然にも彼の隣の部屋の住民であったことが後でわかった。隣同士なのに全く面識がなかったというよくありそうな話とともに、どうやら彼は以前にもこうして運ばれたことがあるらしいことが救急隊員の反応から察せられてちょっと驚く。更にその時の私には病を抱えて暮らす若い人に関する想像が、精神科系統の病以外に関してはすっぽりと抜け落ちていたことに気付かされて、今度はそんな自分の偏りにもっと驚いたのだった。
それから、彼の家で夜が来ると妙に怖くなる時期が少し続いた。私の感じる怖さはなんというか大げさかつ見当違いで、自分のために怖がっている、とでも言えるものだったのでは?と今になっては思い返すわけだけど、真夜中のひっそりした部屋でただ一人発作の兆候を恐れているその人の絵が浮かんで、すぐに駆けつけてくれる誰かはいつのだろうかなどとやけに心配になっていた、その時は本当に相手の身になったつもりで真剣に。でもその想像の中で少し自己陶酔気味に震えていたのは実は、あくまで私に近似の誰かだったのではないか?
そうして完全に履き違えた私の感傷を問い詰める一方で、壁の向こうから目覚まし時計の電子音が時々(というか結構な頻度で)ピピピピピピと3分間以上は鳴り止まないのが聞こえるたびにその彼のことを思い出して、まさか倒れているのでは?と単純に気にかかるのも事実で。救急車を呼んだ時の感じでは、またも勝手な想像だけどほかの誰かのにおいをあまり感じなかったので、普段は一人で黙々と対処しているのかなあなどと思った。だけどそれこそが私の無意識的な感傷(そして空想癖)のなせるわざで、単に寝坊しているだけかもしれないのにね。
きちんと止めるのもままならずに投げ出された自転車をとりあえずどけて、本人の求めるとおりに救急車を呼び先導するという初めての行為に緊張しつつ無事に救急車が走り去ると、実はその人が偶然にも彼の隣の部屋の住民であったことが後でわかった。隣同士なのに全く面識がなかったというよくありそうな話とともに、どうやら彼は以前にもこうして運ばれたことがあるらしいことが救急隊員の反応から察せられてちょっと驚く。更にその時の私には病を抱えて暮らす若い人に関する想像が、精神科系統の病以外に関してはすっぽりと抜け落ちていたことに気付かされて、今度はそんな自分の偏りにもっと驚いたのだった。
それから、彼の家で夜が来ると妙に怖くなる時期が少し続いた。私の感じる怖さはなんというか大げさかつ見当違いで、自分のために怖がっている、とでも言えるものだったのでは?と今になっては思い返すわけだけど、真夜中のひっそりした部屋でただ一人発作の兆候を恐れているその人の絵が浮かんで、すぐに駆けつけてくれる誰かはいつのだろうかなどとやけに心配になっていた、その時は本当に相手の身になったつもりで真剣に。でもその想像の中で少し自己陶酔気味に震えていたのは実は、あくまで私に近似の誰かだったのではないか?
そうして完全に履き違えた私の感傷を問い詰める一方で、壁の向こうから目覚まし時計の電子音が時々(というか結構な頻度で)ピピピピピピと3分間以上は鳴り止まないのが聞こえるたびにその彼のことを思い出して、まさか倒れているのでは?と単純に気にかかるのも事実で。救急車を呼んだ時の感じでは、またも勝手な想像だけどほかの誰かのにおいをあまり感じなかったので、普段は一人で黙々と対処しているのかなあなどと思った。だけどそれこそが私の無意識的な感傷(そして空想癖)のなせるわざで、単に寝坊しているだけかもしれないのにね。
脳内BGMは筋少の「蜘蛛の糸」
2006年6月5日 煮え切らずLast.fmの写真差し替えてみたりネットめぐりしたりする。活字に真剣に向かい合おうとしても次の瞬間には自分の内側に目が向かっていたりして、何にも没頭することができない気分。そんな中でプラの千葉組二人が雑誌の企画でデスノートコスしたとかいう写真を結構しつこく探す(太朗Lのみちっちゃい写真で発見。しかしどんな企画だ…)。
それから仕事。帰りに鳴子集団を再び目撃。
なんだか数日前から気持ちが下降線をとぼとぼと辿りだす。こういう気持ちを背負うことが生きていく上である意味張り合いになると言えなくもないけど、それはあくまでこの体と心を引き受けるしかない私がせめて捻り出した辻褄合わせでしかないような。
じめじめした憂鬱も情けないまでの劣等感も過剰な自省も知ることのない、心根がまっすぐでぴかぴかと屈託なく生きる生(せい)を保障されていたなら、たとえ今よりもその分単調で表層的になってしまっても私はそちらを望むだろうと思う。その私は漠然とした物足りなさを時々口にしたくなるかもしれないが、そういうつぶやきも日常の健全な穏やかさの中ではいつか溶かされていく。今の私の持つマイナス側面を、いくら何らかの糧になると言われたとして、その私はすすんで背負おうとするだろうか?
前向きな言葉や自身を奮い立たせようとする言葉が、捻り出したはしから口実めいたニュアンスを帯びてしまう。
せめてエネルギーがプラスされたら、今の自分を積極的に肯定することもできるだろうに。頭ごなしの自己否定の波はもう過ぎ去ったものの、肯定となるとまだほど遠いな。否定と肯定のあいだでうろうろおたおたしている。
違う生を生きる私なんていうロマンティックで逃避的な仮定は、文学にはありえても現実にはやはりありえない(というか逆だな。現実にありえないから…と考えたほうがいいか。「違う私」というのは受け取り方が複数ありそうなので、ここでは「現在の私をリセットした上での」という意味で)。だから上のようなごちゃごちゃは投げ出して軽やかに生きたいです。こうやって書き残す(というか書き捨てる)ことで、当分は自分を維持していくのかな
++++++++++
という昨日携帯メモに残した内容に、色々付け足しながら書いてみる。彼がこっちを見ていると(画面を見ていなくても)書けなかったので、向こうを向いてもらう。今日は昨日よりも悪い。世の中のネガティブな情報ばかり敏感に拾ってしまう。
それから仕事。帰りに鳴子集団を再び目撃。
なんだか数日前から気持ちが下降線をとぼとぼと辿りだす。こういう気持ちを背負うことが生きていく上である意味張り合いになると言えなくもないけど、それはあくまでこの体と心を引き受けるしかない私がせめて捻り出した辻褄合わせでしかないような。
じめじめした憂鬱も情けないまでの劣等感も過剰な自省も知ることのない、心根がまっすぐでぴかぴかと屈託なく生きる生(せい)を保障されていたなら、たとえ今よりもその分単調で表層的になってしまっても私はそちらを望むだろうと思う。その私は漠然とした物足りなさを時々口にしたくなるかもしれないが、そういうつぶやきも日常の健全な穏やかさの中ではいつか溶かされていく。今の私の持つマイナス側面を、いくら何らかの糧になると言われたとして、その私はすすんで背負おうとするだろうか?
前向きな言葉や自身を奮い立たせようとする言葉が、捻り出したはしから口実めいたニュアンスを帯びてしまう。
せめてエネルギーがプラスされたら、今の自分を積極的に肯定することもできるだろうに。頭ごなしの自己否定の波はもう過ぎ去ったものの、肯定となるとまだほど遠いな。否定と肯定のあいだでうろうろおたおたしている。
違う生を生きる私なんていうロマンティックで逃避的な仮定は、文学にはありえても現実にはやはりありえない(というか逆だな。現実にありえないから…と考えたほうがいいか。「違う私」というのは受け取り方が複数ありそうなので、ここでは「現在の私をリセットした上での」という意味で)。だから上のようなごちゃごちゃは投げ出して軽やかに生きたいです。こうやって書き残す(というか書き捨てる)ことで、当分は自分を維持していくのかな
++++++++++
という昨日携帯メモに残した内容に、色々付け足しながら書いてみる。彼がこっちを見ていると(画面を見ていなくても)書けなかったので、向こうを向いてもらう。今日は昨日よりも悪い。世の中のネガティブな情報ばかり敏感に拾ってしまう。
私には、「物語」に引きずり込まれやすい性格だろうという自覚がある。そして無意識のうちに物語を自分で作り上げそれを自分自身に与えてしまう傾向にもあると思う。ボーダーラインか何かか?と自分をふと疑い、その疑いや自身の不安定さに振り回された時期が過去にあったのだけど、あえて意識しないように努め、物語の中で生き取り返しのつかないところまで行ってしまった自分を想像して恐れた。
だから病院通いも、不必要な物語の方へ自分を導く行為のような気がして、そういう発想は捨てようと思いながらも時々不安が訪れる。私は何でパターン化された物語に沿って自分をわざわざ歪めようとしてしまうのだろう?
せめて薬がはっきり効いてくれれば。そもそも病院を必要としなかった時期から、私はこんな風だったじゃないかと思う。
薬、副作用は出るのに。ひたすら眠い。
++++++++++
彼のアパートの一階にまとめて捨ててあった「アフタヌーン」を拾って読む(捨てる、というかいらない本なんかを住民が置いていくスペースがある)。結構面白い漫画が多かった。下ネタ系漫画にはまりそうになる。
漫画と言えば、西島大介『凹村戦争』を購入。読み終わって、気持ちがざわざわするのだけど、それを上手く言葉に置きかえる事ができない。読み手の心に引っかかりを生じさせる漫画だとは思う。
++++++++++
休んでみて、私にとって働く事自体は必要な事だとわかったが、これまでみたいにしゃかりきに働くのはかえって良くないのかも、という事もわかった。だけどこちらのペースでやれる仕事ではないし、スローに働けるかどうかはあやしい。
こうして離れて、外から眺める余裕ができると、何であんな仕事一人でこなせたんだろう?と驚きさえする。どこか麻痺してないとできないのでは。こう考えるのは若いわりに意欲に乏しくて良くないなとは思うけど、与えられた命題を杓子定規にこなしていく仕事の方が自分には合っている気がする。
++++++++++
からだの大事さを考えるようになったのはここ一年ちょっとの事で、それまではからだを意識する事もなく心ばかり見ていた。心が満たされればそれで全て解決されると思っていたのだ。
自分の世界だけで完結して、それで良いとも思っていた。
だから病院通いも、不必要な物語の方へ自分を導く行為のような気がして、そういう発想は捨てようと思いながらも時々不安が訪れる。私は何でパターン化された物語に沿って自分をわざわざ歪めようとしてしまうのだろう?
せめて薬がはっきり効いてくれれば。そもそも病院を必要としなかった時期から、私はこんな風だったじゃないかと思う。
薬、副作用は出るのに。ひたすら眠い。
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彼のアパートの一階にまとめて捨ててあった「アフタヌーン」を拾って読む(捨てる、というかいらない本なんかを住民が置いていくスペースがある)。結構面白い漫画が多かった。下ネタ系漫画にはまりそうになる。
漫画と言えば、西島大介『凹村戦争』を購入。読み終わって、気持ちがざわざわするのだけど、それを上手く言葉に置きかえる事ができない。読み手の心に引っかかりを生じさせる漫画だとは思う。
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休んでみて、私にとって働く事自体は必要な事だとわかったが、これまでみたいにしゃかりきに働くのはかえって良くないのかも、という事もわかった。だけどこちらのペースでやれる仕事ではないし、スローに働けるかどうかはあやしい。
こうして離れて、外から眺める余裕ができると、何であんな仕事一人でこなせたんだろう?と驚きさえする。どこか麻痺してないとできないのでは。こう考えるのは若いわりに意欲に乏しくて良くないなとは思うけど、与えられた命題を杓子定規にこなしていく仕事の方が自分には合っている気がする。
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からだの大事さを考えるようになったのはここ一年ちょっとの事で、それまではからだを意識する事もなく心ばかり見ていた。心が満たされればそれで全て解決されると思っていたのだ。
自分の世界だけで完結して、それで良いとも思っていた。
4月7日深夜1時頃の日記
2006年4月7日 煮え切らず
買ったばかりのこのぬいぐるみを見て泣いたり、蟹の甲羅の脱皮失敗の映像(「失敗ですね」という飼育役?の職員の台詞のせいもあり)というのををたまたま見て悲しくなって泣いたりして、急にがた落ち。やっぱ駄目でした。
くまになりたい、と文字にしてみても、不思議ちゃんぽいか切迫感ないかのどちらかでしかないのも悲しい。しかも蟹ってあなた。
躁状態はほとんど経験した事がなかったので真剣に怖かったです。鬱々とのあまりの落差も。そしてこのループが一生続くんじゃないかと思ってまた泣くし。
くまになりたい、と文字にしてみても、不思議ちゃんぽいか切迫感ないかのどちらかでしかないのも悲しい。しかも蟹ってあなた。
躁状態はほとんど経験した事がなかったので真剣に怖かったです。鬱々とのあまりの落差も。そしてこのループが一生続くんじゃないかと思ってまた泣くし。
あらゆる事をうまく受け流せない自分の不器用さを魂が高潔である証拠のように周囲にアピールしてみせる、無神経な世間のしわ寄せをひたすら食らっているかのような顔をする、自分は被害者であり、それでも一人けなげに耐えているのだという顔を。
私にしても、感傷に溺れてよい年はもうとっくに過ぎただろう。
寧ろ自分に酔わない人、孤高の人に清らかさと憧れを感じる。自分はそうなれそうにないために。せいぜい他人にそういったアピールをしたり、感受性が鋭いんだと居直ったりして心のバランスをとる事はできるだけ避けたいと思ってみる。
安易な自己肯定は敵だという思いが底の方に残っていて、それで良いと思う反面何か大事な事の妨げになっているんじゃないかという嫌な予感がうっすらとある。
要は「自分だけが生きづらい振りをするなんてずるいぞ」という羨望と、
相手の中に自分と似通う汚点を見出し、それを相手が恥ずかしげもなく周囲に美点であるかのように振りまいて見せている事で、こっちまで恥ずかしさや身内意識から来るような後ろめたさを覚えるという心理パターンと。
私が冒頭のように嫌悪感を覚える相手については、幾らかは投影の結果である事は認めなければならない。
他の人の日記や、周囲の色んな人を見ていると色んな事を思う。
何で皆「私はぎりぎりまで我慢して頑張っちゃうから、後で辛くなるんだ」なんて、堂々と言えてしまうのだろうか。という点にいつも引っ掛かりを覚えているようだ。
その事から自分の矮小さを思うが、これは自分の偏りなのだから、良い悪いではなくそういうものだと考えても良いのかもしれない。
ただそれが上のような「ずるいぞ」云々という思いから来ている事だとか、自分の考えの偏りがどこに由来するのかを掘り下げずにはいられず、またそれが気持ち良いのかもしれなかったり。
「私も所詮同じだ」というのは、先回りしてそう言っておく事で相手からの咎めをあらかじめ回避する防御策でしかない。卑下が美徳だと思っているところが自分にはあって、でもそれは本当なのだろうか。
私にしても、感傷に溺れてよい年はもうとっくに過ぎただろう。
寧ろ自分に酔わない人、孤高の人に清らかさと憧れを感じる。自分はそうなれそうにないために。せいぜい他人にそういったアピールをしたり、感受性が鋭いんだと居直ったりして心のバランスをとる事はできるだけ避けたいと思ってみる。
安易な自己肯定は敵だという思いが底の方に残っていて、それで良いと思う反面何か大事な事の妨げになっているんじゃないかという嫌な予感がうっすらとある。
要は「自分だけが生きづらい振りをするなんてずるいぞ」という羨望と、
相手の中に自分と似通う汚点を見出し、それを相手が恥ずかしげもなく周囲に美点であるかのように振りまいて見せている事で、こっちまで恥ずかしさや身内意識から来るような後ろめたさを覚えるという心理パターンと。
私が冒頭のように嫌悪感を覚える相手については、幾らかは投影の結果である事は認めなければならない。
他の人の日記や、周囲の色んな人を見ていると色んな事を思う。
何で皆「私はぎりぎりまで我慢して頑張っちゃうから、後で辛くなるんだ」なんて、堂々と言えてしまうのだろうか。という点にいつも引っ掛かりを覚えているようだ。
その事から自分の矮小さを思うが、これは自分の偏りなのだから、良い悪いではなくそういうものだと考えても良いのかもしれない。
ただそれが上のような「ずるいぞ」云々という思いから来ている事だとか、自分の考えの偏りがどこに由来するのかを掘り下げずにはいられず、またそれが気持ち良いのかもしれなかったり。
「私も所詮同じだ」というのは、先回りしてそう言っておく事で相手からの咎めをあらかじめ回避する防御策でしかない。卑下が美徳だと思っているところが自分にはあって、でもそれは本当なのだろうか。
思うままを延々書き出してみる
2004年5月7日 煮え切らず会うたびに「忙しい」や「しんどい」や「ああもう無理!」などを連呼する人は正直ちょっとつまらんのです。クラブに出かける事まで「忙しい」に含めるのか。自分自分自分って。そう思いつつも、こちらには誰も興味などなく話を聴くだけ時間の無駄なのだと子供のように拗ねて自虐的になり(しかしそのような考え方を支えるものは相変わらず自分の中に根深くありまるで自動思考と化しているわけで)相手の話に相槌打って話したいようにさせてっつー毎度のパターンはどうなのだ。
と言って聞き上手というほどでもないのだが、聞く担当という役割が日常になると大して疑問も抱かずまあ最初からこういうもんだそれが自分のできる事だと思うようになるが、しかしやり取りが噛み合わないと、一方的な球を投げられこっちの球は見もされず、どころか投げられた球を投げ返したものにさえ「え、投げましたっけ私」みたいな顔をされると、やはり寂しいというか落胆するというか。聞き上手の私素敵、とか酔えたら良いのだろうけどしかし結局私も話を聴いて欲しいんですよそんな風に見えないのかもしれないけども。ってかどうでも良いのかもしれないけど。
皆一歩踏み込んだ話とか相談とかできる相手どうやってつかまえてんの?自分のくだんねー相談なんかに時間とらせるのは申し訳ないとか思って携帯片手にボタン押そうとしたりやっぱやめたりして逡巡せんのだろうか。ああ下らないのは自分一人か。相談内容よりは自分自身への無価値感。だけでなく努力の足りなさ。そうかもしれないが。ほらまた始まった。そんな事考える自分の方が相当つまらんぞ。気付け。
ああもう。偉そうなのも気に食わないが卑屈で自虐的なのも同程度いやらしい。でも偉そうよりはましだと思っている自分。そこにつまらない優越感はないだろうか?
愚痴とか寝てない自慢とか自分自慢とか自分はこんなに忙しい自慢とかやたらとされると周囲の覇気が下がる。相手にもマイナスの波が伝わって萎えて萎えて迷惑この上ない。そんな風に感じるのなら自分はそうならんようにすれば良いだけの話。うん実際そうしてる。とか言いながらたまにはこっちの話も聴いてくれーとか思うんでしょう?虚しいとか何とかこぼしたいんでしょう?ああいう人達がどうも好かないのは半分は本心であり妙な潔癖さ、半分は単なる思考の合理化。
あーでも頑張りたいんだよなあ。どこまで黙っているか都合の良い装置と思われるか、いつ自分から踏み出すか。で踏み出した一歩に対して相手は相手なりに真摯に返答をくれるのか。そしてその繰り返し。できるのか。できるようにしていく努力をすればいいのか。でも何か怖いっていう。つい内にこもる。踏み出す事への気持ちだけが空回り、それを支える具体的な方法を見つけ出すのを怠っていては。
話聴くのは嫌いじゃないんだけど。でも一方的でないコミュニケーションがしたいんです。といって馴れ合いたいわけでもなく。まあ自分を聴く担当とか思い込んで諦めたりしてスポイルしてきちゃったんじゃないのか。いや実際一方的な話したがり屋はいるわけで運悪くそういう人に当たってきたせいですとか思っているのかもしれないが、でも相手を選んで何か投げかけてみて、でぶつかりあって玉砕したりとかいいんじゃないんですか。うわ何言ってんの。まだ意気込みが空回りしているようで気持ち悪い。でもそういう経験が私にはあまりに足りていないのは紛れもない事実。
何かもう充実させたいけど難しい。遠慮しいしい当たり障りのない会話するのは歯痒い。精進しますと言いたいけど、自虐的になる傾向を修正するのがまず先でしょうか。まだそういう考え方が自分のものになりきっていない感じがある。要は停滞してる(私にとって)関係をどう打破していくかに意識的になりたい、それに当たって何が欠けているのかを考えたいという事なんだけど。と言いつつ誰かにたまには何か聴いて欲しいというのが一番初めにある欲求なんだろうけど。つまらないかも知れないけどさあ。延々書いてそこに戻る。
と言って聞き上手というほどでもないのだが、聞く担当という役割が日常になると大して疑問も抱かずまあ最初からこういうもんだそれが自分のできる事だと思うようになるが、しかしやり取りが噛み合わないと、一方的な球を投げられこっちの球は見もされず、どころか投げられた球を投げ返したものにさえ「え、投げましたっけ私」みたいな顔をされると、やはり寂しいというか落胆するというか。聞き上手の私素敵、とか酔えたら良いのだろうけどしかし結局私も話を聴いて欲しいんですよそんな風に見えないのかもしれないけども。ってかどうでも良いのかもしれないけど。
皆一歩踏み込んだ話とか相談とかできる相手どうやってつかまえてんの?自分のくだんねー相談なんかに時間とらせるのは申し訳ないとか思って携帯片手にボタン押そうとしたりやっぱやめたりして逡巡せんのだろうか。ああ下らないのは自分一人か。相談内容よりは自分自身への無価値感。だけでなく努力の足りなさ。そうかもしれないが。ほらまた始まった。そんな事考える自分の方が相当つまらんぞ。気付け。
ああもう。偉そうなのも気に食わないが卑屈で自虐的なのも同程度いやらしい。でも偉そうよりはましだと思っている自分。そこにつまらない優越感はないだろうか?
愚痴とか寝てない自慢とか自分自慢とか自分はこんなに忙しい自慢とかやたらとされると周囲の覇気が下がる。相手にもマイナスの波が伝わって萎えて萎えて迷惑この上ない。そんな風に感じるのなら自分はそうならんようにすれば良いだけの話。うん実際そうしてる。とか言いながらたまにはこっちの話も聴いてくれーとか思うんでしょう?虚しいとか何とかこぼしたいんでしょう?ああいう人達がどうも好かないのは半分は本心であり妙な潔癖さ、半分は単なる思考の合理化。
あーでも頑張りたいんだよなあ。どこまで黙っているか都合の良い装置と思われるか、いつ自分から踏み出すか。で踏み出した一歩に対して相手は相手なりに真摯に返答をくれるのか。そしてその繰り返し。できるのか。できるようにしていく努力をすればいいのか。でも何か怖いっていう。つい内にこもる。踏み出す事への気持ちだけが空回り、それを支える具体的な方法を見つけ出すのを怠っていては。
話聴くのは嫌いじゃないんだけど。でも一方的でないコミュニケーションがしたいんです。といって馴れ合いたいわけでもなく。まあ自分を聴く担当とか思い込んで諦めたりしてスポイルしてきちゃったんじゃないのか。いや実際一方的な話したがり屋はいるわけで運悪くそういう人に当たってきたせいですとか思っているのかもしれないが、でも相手を選んで何か投げかけてみて、でぶつかりあって玉砕したりとかいいんじゃないんですか。うわ何言ってんの。まだ意気込みが空回りしているようで気持ち悪い。でもそういう経験が私にはあまりに足りていないのは紛れもない事実。
何かもう充実させたいけど難しい。遠慮しいしい当たり障りのない会話するのは歯痒い。精進しますと言いたいけど、自虐的になる傾向を修正するのがまず先でしょうか。まだそういう考え方が自分のものになりきっていない感じがある。要は停滞してる(私にとって)関係をどう打破していくかに意識的になりたい、それに当たって何が欠けているのかを考えたいという事なんだけど。と言いつつ誰かにたまには何か聴いて欲しいというのが一番初めにある欲求なんだろうけど。つまらないかも知れないけどさあ。延々書いてそこに戻る。
今年度はできるだけ意識的に。
2004年4月11日 煮え切らず一番今の自分の頭の中を占めているのは、人との関係を豊かにしていきたいという事。いかに働きかけていくかというのは、それに敗れつつもやはりそこで閉じてしまってはならないような、自分にとっては重要な課題になってくると思いだしたため。難しいんだけど。
そういう対人関係を筆頭に、去年は漠然と或いは逃げ腰気味で処理してきた物事について、今年度はもっと意識的になりたい。というか、なるつもりでいる。自発的にそういう意識が芽生えつつある。
勉強するべき事もぐっと増えると思う。本もたくさん読みたいし、同時に考えていきたいし。
一方であまり張り切りすぎないようにしないとな、と。去年はそれで失敗したので。去年の今頃は躁だったなー。それで後で反動が来て内へ内へ閉じてしまったという。いつでも自分の身の程を知らずに、舞い上がって調子に乗ってしまう傾向にあるので。まあ、大きく掲げすぎずに地道にやっていこう。
最近の人間関係は自分にプラスの影響を与えていると思う。だから上のような考え方もできるのかもしれない。
思うのは、自分の数ある欠点はわかっているつもりだが、欠点と一くくりにした中には是非とも直すべきものもある一方で(礼儀の問題とか人に迷惑をかける事とか)、社会的な価値付けにより劣位に置かれているだけのものも多くあると思う。
で私はまず自分の考え方や性質なんかを、周囲の規範を通過させてからしか評価できない所があり、その結果ひたすら修正の方向にあくせく走っていたわけですが、最近はそういう欠点とされた性質を持つ立場からしか見えないものもあるのでは、ならそれをじっくり見据えて磨いていくのも良いのではないかという方向に今後は踏み切りたいと考えているわけで。
自分がこのように思うのは若干うそ寒くもある。本当かよ?大丈夫?っていう不安定でいつか剥がれそうな感じも半分あるため。
まあまずは身近な人達との関係を。
**************
この日は花見でした。サークル関係の。全体で約100人来るというのは全くの誇張というわけでもなかった事に唖然。
しかしいつでもその場を客観視してしまう自分がいる。場の外側の人間の目で見てしまうというか。公園を集団で無断で占拠している事とか、来てくれた新入生の子が入りづらい話題で盛り上がっている人達とか。
疲れた…あそこまで多いと。しかも女の子の集団に出くわすと心の中で身構えてしまう。難しい。
でも新しく来てくれた数人の内一人が凄く好感触で、やっぱり一人でもそういうのは嬉しい。
また金曜の飲み会、講義内アピールをどこでするかの計画なども考えなければねえ。講義の選定はいくつかしているので、また持ち寄って相談する予定。
平行して、サークルでの活動を意識的にやるためにも初めに書いたような勉強もしていかなければ。
(独り言)
MTさんの一言が、後になって物凄く気になりだし。
アレハイッタイ…!
えーと…って事はもしやほんのりバレてますか?
いや、逆に…いやまさかな。
(独り言終了)
なんかやっぱり張り切ってるなあ…反動来そうで怖いなあ。一応自分の意識だけが先走らないように気を付けてはいるものの。
そういう対人関係を筆頭に、去年は漠然と或いは逃げ腰気味で処理してきた物事について、今年度はもっと意識的になりたい。というか、なるつもりでいる。自発的にそういう意識が芽生えつつある。
勉強するべき事もぐっと増えると思う。本もたくさん読みたいし、同時に考えていきたいし。
一方であまり張り切りすぎないようにしないとな、と。去年はそれで失敗したので。去年の今頃は躁だったなー。それで後で反動が来て内へ内へ閉じてしまったという。いつでも自分の身の程を知らずに、舞い上がって調子に乗ってしまう傾向にあるので。まあ、大きく掲げすぎずに地道にやっていこう。
最近の人間関係は自分にプラスの影響を与えていると思う。だから上のような考え方もできるのかもしれない。
思うのは、自分の数ある欠点はわかっているつもりだが、欠点と一くくりにした中には是非とも直すべきものもある一方で(礼儀の問題とか人に迷惑をかける事とか)、社会的な価値付けにより劣位に置かれているだけのものも多くあると思う。
で私はまず自分の考え方や性質なんかを、周囲の規範を通過させてからしか評価できない所があり、その結果ひたすら修正の方向にあくせく走っていたわけですが、最近はそういう欠点とされた性質を持つ立場からしか見えないものもあるのでは、ならそれをじっくり見据えて磨いていくのも良いのではないかという方向に今後は踏み切りたいと考えているわけで。
自分がこのように思うのは若干うそ寒くもある。本当かよ?大丈夫?っていう不安定でいつか剥がれそうな感じも半分あるため。
まあまずは身近な人達との関係を。
**************
この日は花見でした。サークル関係の。全体で約100人来るというのは全くの誇張というわけでもなかった事に唖然。
しかしいつでもその場を客観視してしまう自分がいる。場の外側の人間の目で見てしまうというか。公園を集団で無断で占拠している事とか、来てくれた新入生の子が入りづらい話題で盛り上がっている人達とか。
疲れた…あそこまで多いと。しかも女の子の集団に出くわすと心の中で身構えてしまう。難しい。
でも新しく来てくれた数人の内一人が凄く好感触で、やっぱり一人でもそういうのは嬉しい。
また金曜の飲み会、講義内アピールをどこでするかの計画なども考えなければねえ。講義の選定はいくつかしているので、また持ち寄って相談する予定。
平行して、サークルでの活動を意識的にやるためにも初めに書いたような勉強もしていかなければ。
(独り言)
MTさんの一言が、後になって物凄く気になりだし。
アレハイッタイ…!
えーと…って事はもしやほんのりバレてますか?
いや、逆に…いやまさかな。
(独り言終了)
なんかやっぱり張り切ってるなあ…反動来そうで怖いなあ。一応自分の意識だけが先走らないように気を付けてはいるものの。
学校の始まりをある程度晴れやかな気分で迎えられるというのはなんとも有難い事で、というのはものっごく辛そうな検索ワードでここに来た子がいたからなんですが。
恐らく高校生と思しきその子の頭の中には自分の手では対処しきれないだけの色んな感情がかわるがわる襲い来て、何かもうぐっちゃぐちゃで切迫して混乱状態なんだろうなと思うと、その子の「ウワー」が伝染して私も若干「ウワー」となりかけたよ。
そこから勝手に推測しちゃって私が語るのは不要な事でしかないけど、「あと二年…一年…ブツブツ」って感じで(ブツブツは余計ですが)いつかは終わる、この先何とでも立て直せると言い聞かせて何とか切り抜けるしかないよなあ…と。
生活を楽しいものにするも苦しいものにするも自分次第で、プラスに転換できないのはお前の責任と言われると全くその通りでその通りすぎて反論する気もなくなるが、やっぱり環境は自分の力では何ともできないものだと思うんだよな…。巨大で曖昧すぎて一個人では立ち向かえないというか。
でもまあ、勿体無い3年間の使い方をしてしまったなと強く思う。その年数に値するだけの思考の痕跡も精神の発達も自分にはない気がする。ほとんど記憶もないし。
勿体無いよな、折角人間の成長に関わる時期にあんな過ごし方するって。
そんな風にしつこく引きずる自分には未だに解消できないルサンチマンのようなものがあるのだろうかと、改めて思わされる。大学に入って出会った人との会話でふと相手が「高校の頃が一番楽しかったし戻りたい」と言われると、相手との間に物凄い壁を感じたり「自分って?」と虚しくなったり羨んだり。
まあ今は楽しいからいいんだけどさ。
気付けばそんな事ばっかり言ってる気がする。10年後には言わなくなっている事を願う。10年は大げさかさすがに。
講義が終わってから鴨川沿いの芝生(?)で読書タイム。飽きたら昼寝タイム。春は不安定なので好きではないが、暖かくなって外で読書したりこういう過ごし方できたりするのが唯一好きだ。
夕方になると川沿いなのでさすがに肌寒い。でもまた行くぜ。
恐らく高校生と思しきその子の頭の中には自分の手では対処しきれないだけの色んな感情がかわるがわる襲い来て、何かもうぐっちゃぐちゃで切迫して混乱状態なんだろうなと思うと、その子の「ウワー」が伝染して私も若干「ウワー」となりかけたよ。
そこから勝手に推測しちゃって私が語るのは不要な事でしかないけど、「あと二年…一年…ブツブツ」って感じで(ブツブツは余計ですが)いつかは終わる、この先何とでも立て直せると言い聞かせて何とか切り抜けるしかないよなあ…と。
生活を楽しいものにするも苦しいものにするも自分次第で、プラスに転換できないのはお前の責任と言われると全くその通りでその通りすぎて反論する気もなくなるが、やっぱり環境は自分の力では何ともできないものだと思うんだよな…。巨大で曖昧すぎて一個人では立ち向かえないというか。
でもまあ、勿体無い3年間の使い方をしてしまったなと強く思う。その年数に値するだけの思考の痕跡も精神の発達も自分にはない気がする。ほとんど記憶もないし。
勿体無いよな、折角人間の成長に関わる時期にあんな過ごし方するって。
そんな風にしつこく引きずる自分には未だに解消できないルサンチマンのようなものがあるのだろうかと、改めて思わされる。大学に入って出会った人との会話でふと相手が「高校の頃が一番楽しかったし戻りたい」と言われると、相手との間に物凄い壁を感じたり「自分って?」と虚しくなったり羨んだり。
まあ今は楽しいからいいんだけどさ。
気付けばそんな事ばっかり言ってる気がする。10年後には言わなくなっている事を願う。10年は大げさかさすがに。
講義が終わってから鴨川沿いの芝生(?)で読書タイム。飽きたら昼寝タイム。春は不安定なので好きではないが、暖かくなって外で読書したりこういう過ごし方できたりするのが唯一好きだ。
夕方になると川沿いなのでさすがに肌寒い。でもまた行くぜ。
環境と関係性と感情の海で
2004年3月14日 煮え切らず下の文章を書きながら考えていた。初めはこういう境地からシロップは次にどこへ向かうのか、それからもしここからの回復を図るとしたらどんな方法が取れるのかという事にまで思考が及んだ。
自分自身と等価に見るにはあまりにもあの作品世界が内に抱える淵が果てがなく深すぎる事は承知だが、自分にもそのような感覚は少しだがわかる気がする。
自分自身への無価値感やら、脱落していく感じやら。
自分と周囲との距離感への姿勢が今の状態で自分自身に根付くまでに、二度ほど大きな分岐点に立った気がする。
仮にそこで誰かが一言言葉をかけてくれたところで、依存に没入せずに相手の心遣いをあくまでもガイドラインにしながら自分自身をシビアに律する事ができたかと自問すると、全くその自信はない。
だから周囲全ての人に見ない振りをされ続けた経験やら、自分の深層部分を提示していくら相手と関わろうとしてもそれがいつも失敗に終わったという事やらが、結果的にプラスに働いたという考え方も多分にできる。その間に自分一人の手で周囲との関わり方、というより関われない事を自分の中でどう処理するかを模索せざるを得なかった事は無駄とは言い切れないだろうから。
ではあるがやはり心情として「何で何も言ってくれなかったんだ」とやるせなく思いもするし、必ずしも依存に傾かなかったのではないか?今よりもましな方向に進めたとは想像できないか?結果的に自分の発見した(と思い込んだ)他人との関係の結び方とは卑屈で自己完結しすぎた答えではなかったか?などとも。
人との関係性が歳の割には不完全で精神的に幼い気がするのは、過去において捻じ曲がったコミュニケーションでももういいのだと、きっと自分はそれしかできない人間なのだなどと安住してしまったせいもあるのではないか。
いくらか調整できるようになったものの、まだ0か100かの両極に振り切れるんじゃないかという心配がある。自分を完全によそに追いやり隠蔽して相手と接するか、全体重をかけてしまうか。
今は安定はしているが、単に切実さをなくしただけのような気もする。悩まなくなった、辛くなくなった、ではなくそれ以前の状況。
現にこうしてつらつら書いてはいるが、割と恨み(笑・おいおい)やその人達への不満、逆に強烈な内罰的思考や自責の念はそんなにない。今の気分がたまたまそうだという話かもしれないが。一時期半端じゃなく強かったのでそれで使い果たしたか。でも強い感情があったという点だけ見ると、ない物ねだり的にその時期を僅かに評価したくもある。
物凄く漠然と自分の生を消費している感じがあって、それをどこかで見直す必要性をこれまたしばらく漠然と感じていたせいか、急に文章にして考えてみたくなった。でも実際に直す気概があるかどうかは心もとないが。
まあ最近サークルなどがあってこれがいいきっかけになればなと、淡い期待を抱いているせいもある。若干潤ってますね、人に対する考え方などが。こちらから働きかけたいと久々に思えるような。
届かなくてもどうでもいい、仕方ないではなく、普通に悲しいとか苦しいとか再び感じられたらいいと思う。取り敢えず今日の気分では。明日どう思ってるかは知らない。
明日も早いので寝ないとねえそろそろ。
久々に頭(心?)の表面よりも少しばかり深いところを使って考えた気がする。
でもまだ肝心な所までは考えが到達していない感じもする。
自分自身と等価に見るにはあまりにもあの作品世界が内に抱える淵が果てがなく深すぎる事は承知だが、自分にもそのような感覚は少しだがわかる気がする。
自分自身への無価値感やら、脱落していく感じやら。
自分と周囲との距離感への姿勢が今の状態で自分自身に根付くまでに、二度ほど大きな分岐点に立った気がする。
仮にそこで誰かが一言言葉をかけてくれたところで、依存に没入せずに相手の心遣いをあくまでもガイドラインにしながら自分自身をシビアに律する事ができたかと自問すると、全くその自信はない。
だから周囲全ての人に見ない振りをされ続けた経験やら、自分の深層部分を提示していくら相手と関わろうとしてもそれがいつも失敗に終わったという事やらが、結果的にプラスに働いたという考え方も多分にできる。その間に自分一人の手で周囲との関わり方、というより関われない事を自分の中でどう処理するかを模索せざるを得なかった事は無駄とは言い切れないだろうから。
ではあるがやはり心情として「何で何も言ってくれなかったんだ」とやるせなく思いもするし、必ずしも依存に傾かなかったのではないか?今よりもましな方向に進めたとは想像できないか?結果的に自分の発見した(と思い込んだ)他人との関係の結び方とは卑屈で自己完結しすぎた答えではなかったか?などとも。
人との関係性が歳の割には不完全で精神的に幼い気がするのは、過去において捻じ曲がったコミュニケーションでももういいのだと、きっと自分はそれしかできない人間なのだなどと安住してしまったせいもあるのではないか。
いくらか調整できるようになったものの、まだ0か100かの両極に振り切れるんじゃないかという心配がある。自分を完全によそに追いやり隠蔽して相手と接するか、全体重をかけてしまうか。
今は安定はしているが、単に切実さをなくしただけのような気もする。悩まなくなった、辛くなくなった、ではなくそれ以前の状況。
現にこうしてつらつら書いてはいるが、割と恨み(笑・おいおい)やその人達への不満、逆に強烈な内罰的思考や自責の念はそんなにない。今の気分がたまたまそうだという話かもしれないが。一時期半端じゃなく強かったのでそれで使い果たしたか。でも強い感情があったという点だけ見ると、ない物ねだり的にその時期を僅かに評価したくもある。
物凄く漠然と自分の生を消費している感じがあって、それをどこかで見直す必要性をこれまたしばらく漠然と感じていたせいか、急に文章にして考えてみたくなった。でも実際に直す気概があるかどうかは心もとないが。
まあ最近サークルなどがあってこれがいいきっかけになればなと、淡い期待を抱いているせいもある。若干潤ってますね、人に対する考え方などが。こちらから働きかけたいと久々に思えるような。
届かなくてもどうでもいい、仕方ないではなく、普通に悲しいとか苦しいとか再び感じられたらいいと思う。取り敢えず今日の気分では。明日どう思ってるかは知らない。
明日も早いので寝ないとねえそろそろ。
久々に頭(心?)の表面よりも少しばかり深いところを使って考えた気がする。
でもまだ肝心な所までは考えが到達していない感じもする。
こんな気持ちはもういいよ 狂ったままの遠近法
2004年2月12日 煮え切らず寝られん。
夜中の方が結構感情がリアルに出てきて、なんというか相当きついものがある。わざわざ起きだしてパソコン立ち上げる始末。しかも何故か蛍光灯もつけず。つけろよ。まあ若干落ち着きましたが。落ち着くとまた普段のような口調に戻る。それが駄目なのか。やっぱりキャラミルにあった内容を実行するのも手だろうか。けど受け止めてもらえないのがオチだと頭から回避しようとしてるわけで。悲しいとか怖いとか言ったってねえ…どうしてほしいわけ?って感じだろうし。つうか甘いよやっぱり。自分で何とかしなよいい年して。といいながらも一回でいいので感情表出を相手の望む形ではなく自分の思うままに出してみたいというのが、うーんでもその受け口がねえ…。子供時代からつまんない形で引きずってますな私、ってだから何故そういう態度で書かないと気が済まない。子供の感情表現を尊重せず自らの都合によって矯正しないで下さいと、今親になってる人はお願いします。駄目ですよ自分が何かしてあげたのに素直に喜ばないから欠陥品呼ばわりとか。それが嬉しくないからとか照れてるだけとかあるでしょう。ああ夜中(4:20)だからかなあこんな内容。喋りすぎ。朝起きたら冷や汗出そうだ。まあいいや。つうかいつの話だこれ。誰も覚えちゃおらんって。
「わからない」という言葉が自分の中で一人歩きしている。会話の前後関係込みでとらえて正確に理解しようとすればなんてことはない、しかしそういうのをわかっていながらも言葉単体の持つ力やイメージなどのそこにまつわるものの方が圧倒的に強くて、相当振り回されている感じが。しつこいんだよまだカウンセリングがどうのこうの考えてるから。普通に「若い女の人は苦手なので」と終了間際にでも言えばまだギリギリセーフだった気が。やっぱりもう一人の人にも頼んでみようか?と思いながらも逡巡。しかし自分の欲しいものはカウンセリングの人間関係で得られるものではない気もする…ってどうなのよ何が不満なんだ。でも何にも大した事はないのにな多分…自分でややこしくしちゃってる所が多分にあるような。スタートは同じでも自分みたいになってない人だって沢山いるのに…とか天秤に乗せられるものでもないのにそれでも、なんか甘いんだよ妄想なんだよと思わずにはいられない。というか事実甘いんだけどね…というのはわかったからそれを建設的に活かせばいい。それとも甘い事ばっかり言ってる自分を受容的に見て欲しいとか言うわけ?そんな馬鹿な話もないし。これは本当に。
どうでもいいけどカウンセラーの人ってあまりバッチリ化粧しない方がいいんじゃないかと、思い出してみるにそう思う。多分それも苦手の一因だったと。何かこっちの心を寄せ付けないものを感じた。
さあいい加減寝よう…。
夜中の方が結構感情がリアルに出てきて、なんというか相当きついものがある。わざわざ起きだしてパソコン立ち上げる始末。しかも何故か蛍光灯もつけず。つけろよ。まあ若干落ち着きましたが。落ち着くとまた普段のような口調に戻る。それが駄目なのか。やっぱりキャラミルにあった内容を実行するのも手だろうか。けど受け止めてもらえないのがオチだと頭から回避しようとしてるわけで。悲しいとか怖いとか言ったってねえ…どうしてほしいわけ?って感じだろうし。つうか甘いよやっぱり。自分で何とかしなよいい年して。といいながらも一回でいいので感情表出を相手の望む形ではなく自分の思うままに出してみたいというのが、うーんでもその受け口がねえ…。子供時代からつまんない形で引きずってますな私、ってだから何故そういう態度で書かないと気が済まない。子供の感情表現を尊重せず自らの都合によって矯正しないで下さいと、今親になってる人はお願いします。駄目ですよ自分が何かしてあげたのに素直に喜ばないから欠陥品呼ばわりとか。それが嬉しくないからとか照れてるだけとかあるでしょう。ああ夜中(4:20)だからかなあこんな内容。喋りすぎ。朝起きたら冷や汗出そうだ。まあいいや。つうかいつの話だこれ。誰も覚えちゃおらんって。
「わからない」という言葉が自分の中で一人歩きしている。会話の前後関係込みでとらえて正確に理解しようとすればなんてことはない、しかしそういうのをわかっていながらも言葉単体の持つ力やイメージなどのそこにまつわるものの方が圧倒的に強くて、相当振り回されている感じが。しつこいんだよまだカウンセリングがどうのこうの考えてるから。普通に「若い女の人は苦手なので」と終了間際にでも言えばまだギリギリセーフだった気が。やっぱりもう一人の人にも頼んでみようか?と思いながらも逡巡。しかし自分の欲しいものはカウンセリングの人間関係で得られるものではない気もする…ってどうなのよ何が不満なんだ。でも何にも大した事はないのにな多分…自分でややこしくしちゃってる所が多分にあるような。スタートは同じでも自分みたいになってない人だって沢山いるのに…とか天秤に乗せられるものでもないのにそれでも、なんか甘いんだよ妄想なんだよと思わずにはいられない。というか事実甘いんだけどね…というのはわかったからそれを建設的に活かせばいい。それとも甘い事ばっかり言ってる自分を受容的に見て欲しいとか言うわけ?そんな馬鹿な話もないし。これは本当に。
どうでもいいけどカウンセラーの人ってあまりバッチリ化粧しない方がいいんじゃないかと、思い出してみるにそう思う。多分それも苦手の一因だったと。何かこっちの心を寄せ付けないものを感じた。
さあいい加減寝よう…。
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記憶はいつか妄想に変わる
2004年2月5日 煮え切らず何がきっかけでこういう思考回路になったのかは忘れたんですが。頭の中をずっと回っていて他の作業ができなさそうなのでここに出しておこう。読み辛いですが、独り言のようなものなので文章を大して整理しないせいです。そのため多分読んでも面白くないです。うざくて申し訳ない。
幼少期のほんの数年の東京住まいが何故自分の中で結構なウェイトを占めているのかという疑問は前々からあって、それこそ関西に来てから小中の頃に「東京は人が冷たい」「空気が汚い」という言葉に「行った事あってそう言ってるんだろうなお前ら」と反発心を感じたのは、転校直後のまだ根っこまでは下ろせない落ち着かなさから自分のいた土地をアイデンティティーとして唯一の拠り所にして対抗しようとしていたからかもしれないけど。純粋な意味での愛着はそれほど強くはなかったし。
にしても今は関西での思い出の方が良くも悪くも強烈なわけで、東京時代の自分は封印したいほど今よりももっと訳わからない子供だったのだし、にもかかわらず関西よりも東京に思い入れというか根付く地点を求めようとする(だけどうっすらとした思い出以外に大した手がかりがないのでそれは失敗するわけですが)のは何なんだろう。能動的に「東京が好きだから」と選び取ってる感じがどうもしない(好きは好きなんですけどね、やっぱ便利だし)。消去法のような。
やっぱり地元に対する、解消されないだろう疑いのようなもののせいだろうか。何かそこで育った十代の自分を未だに良しとできないというか。「田舎の人は優しい」説を初めは信用していたものの、田舎だろうが都会だろうが結局人はどこ行っても同じよという不信感(なんて言ってねえ)を強くした時期であり、寧ろ田舎的な共同体意識に全くなじめなかった(田舎の人が優しいというのならそれは多分短期滞在者に対してのみなんじゃないかな、人間的な気質そのものが全く違うというわけではなく。当たり前なんだけど)。地縁血縁という中で生きるしかないのはわかっているが、どうも自分はそのもっともらしく設定された関係以外の場所を探したいという身勝手な幻想を抱いてしまう。だから『ハッシュ!』に物凄く感じるものがあったんだろうけど。
地域全体という大きな括りは前提にしたとしても、そこからもっと細かく区切っていけば、別の場所もあったのか?とか、別の場所にいたなら自分は今どんな風になっていたのだろうなどとありえない事にばかり思いを馳せてしまうわけで。逃避気味に。割り当てられた場所でさえ生きられない者が他に何ができる、とは十分承知で、それでもそのかつていた場所に精神的に延々縛られる自分は何なんだろう…とか。
結構冷静に客観的にとらえてみたら、案外事実はなんて事はなくて、自分の妄想の中で思い込みがどんどんエスカレートしているという可能性もあるんだけど。いつも気にかかるのは、自分の考えている「体験」というものがほとんど脚色なしのものなのか、バイアスが思い切りかかっているものなのかという事。結構思い込み激しいからさ…。まあ脚色なしの体験なんてものは存在しないとは思うし、バイアス込みで体験なんだとは思うけど。
あそうか妹の受験の事考えたからだ。地元出たがっているし、そうして一人一人去っていくのを見て母は侘しさを感じているのだろうかと唐突に。母は(「も」か)東京にまだ未練のあるので侘しさだけというよりは自分がその土地に縛られる事への鬱々とした不満を、まだどこかに感じてるんじゃないかと、そんな想像をふっとしたもんだから。
あとは「喋り方関西っぽくないよね」とたびたび言われる事と、今読んでいる『臨床文学論』という本のためと。
何かボーっとしてる時間があると、色んな事が雑多に混ざり合ってきて、ついこうやって過去をこっちに手繰り寄せて何やかんやと連想ゲームのような考え事をしてしまう癖があるなあ。
というかこんな事延々言っている自分には苦笑いだよ。でナンバーガールの歌詞(日記タイトル)がふっと浮かぶわけです。込められた意味合いは違うと思うけど。あとはシロップ「センチメンタル」の「妄想 もうよそう」も同じように。だけどシリアスな曲にこの語呂合わせみたいな歌詞がぽっと入ってくるという所に、毎回「何で?」となってしまうんですが。
頭で思うより肌で感じるというか、そういう当時自分がいた場所で察知した重苦しい空気の方が意識の深い部分に残っているので、思い込みなどではなくそれを私の事実として信用してもいいんだろうけど、でもどこかの地点から思い込みが始まっている気がしてならないので(つまり自分が被害者ぶるのが妥当ではないという事)、正せるものなら正したいとは思っている。というかこんな事に拘っているのもおかしいし、正さなければなと。多分大した事なかったんだよな現実は。ただ過剰に自分が反応してしまっただけであって。「こんな大した事ない程度の事で…」という後ろめたさが常にある。
幼少期のほんの数年の東京住まいが何故自分の中で結構なウェイトを占めているのかという疑問は前々からあって、それこそ関西に来てから小中の頃に「東京は人が冷たい」「空気が汚い」という言葉に「行った事あってそう言ってるんだろうなお前ら」と反発心を感じたのは、転校直後のまだ根っこまでは下ろせない落ち着かなさから自分のいた土地をアイデンティティーとして唯一の拠り所にして対抗しようとしていたからかもしれないけど。純粋な意味での愛着はそれほど強くはなかったし。
にしても今は関西での思い出の方が良くも悪くも強烈なわけで、東京時代の自分は封印したいほど今よりももっと訳わからない子供だったのだし、にもかかわらず関西よりも東京に思い入れというか根付く地点を求めようとする(だけどうっすらとした思い出以外に大した手がかりがないのでそれは失敗するわけですが)のは何なんだろう。能動的に「東京が好きだから」と選び取ってる感じがどうもしない(好きは好きなんですけどね、やっぱ便利だし)。消去法のような。
やっぱり地元に対する、解消されないだろう疑いのようなもののせいだろうか。何かそこで育った十代の自分を未だに良しとできないというか。「田舎の人は優しい」説を初めは信用していたものの、田舎だろうが都会だろうが結局人はどこ行っても同じよという不信感(なんて言ってねえ)を強くした時期であり、寧ろ田舎的な共同体意識に全くなじめなかった(田舎の人が優しいというのならそれは多分短期滞在者に対してのみなんじゃないかな、人間的な気質そのものが全く違うというわけではなく。当たり前なんだけど)。地縁血縁という中で生きるしかないのはわかっているが、どうも自分はそのもっともらしく設定された関係以外の場所を探したいという身勝手な幻想を抱いてしまう。だから『ハッシュ!』に物凄く感じるものがあったんだろうけど。
地域全体という大きな括りは前提にしたとしても、そこからもっと細かく区切っていけば、別の場所もあったのか?とか、別の場所にいたなら自分は今どんな風になっていたのだろうなどとありえない事にばかり思いを馳せてしまうわけで。逃避気味に。割り当てられた場所でさえ生きられない者が他に何ができる、とは十分承知で、それでもそのかつていた場所に精神的に延々縛られる自分は何なんだろう…とか。
結構冷静に客観的にとらえてみたら、案外事実はなんて事はなくて、自分の妄想の中で思い込みがどんどんエスカレートしているという可能性もあるんだけど。いつも気にかかるのは、自分の考えている「体験」というものがほとんど脚色なしのものなのか、バイアスが思い切りかかっているものなのかという事。結構思い込み激しいからさ…。まあ脚色なしの体験なんてものは存在しないとは思うし、バイアス込みで体験なんだとは思うけど。
あそうか妹の受験の事考えたからだ。地元出たがっているし、そうして一人一人去っていくのを見て母は侘しさを感じているのだろうかと唐突に。母は(「も」か)東京にまだ未練のあるので侘しさだけというよりは自分がその土地に縛られる事への鬱々とした不満を、まだどこかに感じてるんじゃないかと、そんな想像をふっとしたもんだから。
あとは「喋り方関西っぽくないよね」とたびたび言われる事と、今読んでいる『臨床文学論』という本のためと。
何かボーっとしてる時間があると、色んな事が雑多に混ざり合ってきて、ついこうやって過去をこっちに手繰り寄せて何やかんやと連想ゲームのような考え事をしてしまう癖があるなあ。
というかこんな事延々言っている自分には苦笑いだよ。でナンバーガールの歌詞(日記タイトル)がふっと浮かぶわけです。込められた意味合いは違うと思うけど。あとはシロップ「センチメンタル」の「妄想 もうよそう」も同じように。だけどシリアスな曲にこの語呂合わせみたいな歌詞がぽっと入ってくるという所に、毎回「何で?」となってしまうんですが。
頭で思うより肌で感じるというか、そういう当時自分がいた場所で察知した重苦しい空気の方が意識の深い部分に残っているので、思い込みなどではなくそれを私の事実として信用してもいいんだろうけど、でもどこかの地点から思い込みが始まっている気がしてならないので(つまり自分が被害者ぶるのが妥当ではないという事)、正せるものなら正したいとは思っている。というかこんな事に拘っているのもおかしいし、正さなければなと。多分大した事なかったんだよな現実は。ただ過剰に自分が反応してしまっただけであって。「こんな大した事ない程度の事で…」という後ろめたさが常にある。
たまに痛感すること。
他の21年生きている人に比べると、周囲の人と接する事が(頻度・人数共に)少ないのと、相手と全力で心を通わすような接し方をしていないのとで、自分が精神的に未発達な気がする。
色んなものを見聞きして自分一人の中で考えを煮詰めていくのは勿論重要で、それでも周囲と接する事で深めるしかないものもあると思う。
自分の希薄な人間関係を振り返って少し後悔する。
でも、自業自得。
他の21年生きている人に比べると、周囲の人と接する事が(頻度・人数共に)少ないのと、相手と全力で心を通わすような接し方をしていないのとで、自分が精神的に未発達な気がする。
色んなものを見聞きして自分一人の中で考えを煮詰めていくのは勿論重要で、それでも周囲と接する事で深めるしかないものもあると思う。
自分の希薄な人間関係を振り返って少し後悔する。
でも、自業自得。
人と会った時、特に輪から何となく外れてしまう人と会った時に、表面に表れた情報だけで簡単に判断するのではなくこの人のそうした性格を作ったものをも考えたいと思うのは、結局自分がそうして欲しいという思いの表れなのだと思う。
ともかくぱっと見てわかる事から判断せざるを得ないのは仕方ない事なのに、それに少し抵抗を感じている。断罪されるのが怖いのだと思う。失敗とか欠陥とか間違ってるとかそんな烙印をまた押されるのではないかと内心怯えている。
深く知ってもらったところで結果は同じかもしれない。それでも無造作に切り捨てられる事の方が辛い。
正解・不正解、そんなものはないかもしれない。
そして物事を判断する確固たる基準は自分の中にもあるとわかっている。
なのに各場面において自分が思い描く「正解」はその場の空気や相手に激しく左右される。自分自身の答えを疎かにしてまでも、その場にいる人に認定される答えを出さなければという方向に走ってしまう。
そのままではいつか愛想をつかされてしまう事はわかっている。自分の思いを貫き、自分で自分にOKが出せるような境地を目指せばいい。そうやってふらふらして相手の採点に怯えて、いつまでも自分で自分の価値を貶めたままでいるわけにはいかない。
でも、どうしても気になってしかたない。
他人の承認に重きを置いている事から来るのだと思う。そればかりを渇望してそれで全てが解決されると思い込んで、本末転倒になっている。
そんな事を気にしなくてもいいのだと、相変わらず都合のいい言葉を待っているのかもしれない。
そういうものが自分の中に根深くある事をよく意識するここしばらく。
そんな事にあくせくする必要などなく、自分の思いを見てくれて温かく肯定してくれる人はいないだろうかなどと、まだ夢見てんのよねえ。
ともかくぱっと見てわかる事から判断せざるを得ないのは仕方ない事なのに、それに少し抵抗を感じている。断罪されるのが怖いのだと思う。失敗とか欠陥とか間違ってるとかそんな烙印をまた押されるのではないかと内心怯えている。
深く知ってもらったところで結果は同じかもしれない。それでも無造作に切り捨てられる事の方が辛い。
正解・不正解、そんなものはないかもしれない。
そして物事を判断する確固たる基準は自分の中にもあるとわかっている。
なのに各場面において自分が思い描く「正解」はその場の空気や相手に激しく左右される。自分自身の答えを疎かにしてまでも、その場にいる人に認定される答えを出さなければという方向に走ってしまう。
そのままではいつか愛想をつかされてしまう事はわかっている。自分の思いを貫き、自分で自分にOKが出せるような境地を目指せばいい。そうやってふらふらして相手の採点に怯えて、いつまでも自分で自分の価値を貶めたままでいるわけにはいかない。
でも、どうしても気になってしかたない。
他人の承認に重きを置いている事から来るのだと思う。そればかりを渇望してそれで全てが解決されると思い込んで、本末転倒になっている。
そんな事を気にしなくてもいいのだと、相変わらず都合のいい言葉を待っているのかもしれない。
そういうものが自分の中に根深くある事をよく意識するここしばらく。
そんな事にあくせくする必要などなく、自分の思いを見てくれて温かく肯定してくれる人はいないだろうかなどと、まだ夢見てんのよねえ。
本当の気持ちだけが置き去りになっていくよ
2004年1月19日 煮え切らずライブが良すぎてシロップしか聴けない状態。
アートスクールの他作品を急に聴いてみようと思ったが(シャーロット.e.p.が良いのか悪いのかピンとこなかったので)近所の中古CD屋では売り切れだっただけに余計。前見た時はいっぱいあったのにー。
チケットを引き換えに行ったら予想通り割と前。でもモッシュゾーンに当たっても辛い少し下がって見るだろうな…女ばかりなら倒れずにいけそうだけど、流石に男相手だと負けるわな。何よりシロップのライブで暴れる気になれない。
ほぼ力技でレポート一つ完成さす。だらだらやっていたのだが、ここらで区切りをつけないと、いい加減後がつかえているよと思い焦った。久々に集中力を発揮した。でもレポートの出来は問わないで。
先日ある番組を見ていて気付いたが、私は人間が何かを取り戻していく物語に弱い。どちらかというと精神的なものに関する物語が。見ていて普通に感動して目頭が熱くなった。
ずるずる駄目になっていく、プラスもマイナスさえも何も出てこないほどに荒廃して行く、そういうのを見るのもこちらに痛烈に訴えかけてくるものはあるが、そういうものよりも心の奥が揺さぶられる思いがする。
そして考えが改められるというか、元の地点に戻されるような感じがする。本当はそうありたいんだったと。
それに自分を重ねるのは、必死の思いで日々暮らしているその人達からすれば失礼で不愉快で自己完結的なものであると思う。こちらのは単に自意識過剰の産物であるから。それでもその番組には何か思う所はあったのだ。
悩む事すら放棄していた時期がしばらく続き、たまに悩んで幾らか真剣に取り組んでみはしても、このまま行こうと立て直せなくともどうでもいい、仕方ないんだという調子が多くを占めていた。
どうでもよくなったら終わりだなと痛感したが、何を見ても自分の心や思考が微塵も反応しない、取り立てて言いたい事もない、出力ゼロ。自分の心の表層部しか使わず生きているなという何か決定的に間違った感じだけが漠然とあった。
未必の故意ではないが、それを知りながら何もしない、そうしている内にも状況は水面下でじわじわ悪化しているのではないか、そんな危機感をうっすら抱いていた。でも立て直す気になれない。
対人関係にしても、目の前の人と交流する気も起きず、相手に興味を持つ事やこちらを知ってもらおうとする事の可能性を自ら絶っていた気がする。勝手に失望した挙句一人で諦めモードに入りどんどん閉ざしていくような、でもそれもどうしようもないよなと考えていた。
他人が全部ひと塊の背景に見えるような、繋がりを求める気も起きなかった。起きたとしてもどうしていったらいいのかわからなかった。
最近その出力がゼロから再び僅かにプラスに動き出したように思う。またゼロに戻るかもしれないけど、そういうわけにもいかないので維持したい。できたら。
周囲に対しても、こちらから歩み寄ってみて駄目だったら仕方ないと思う方がいいかもな…と。実際怖さの方が勝ってるんですが。だから初めから内にこもってた方がいいんじゃないの?とも考えてしまうわけですが。警戒心が物凄い。生活上、表面的な会話だけでも案外事足りるらしいし。でも本当はそれじゃ嫌なんだよな。
私は人の力を借りたいと思って良いのだろうか。何かを求めてまともに返事が返ってきたためしがない、何も努力せず人の優しさだとか受容だとかを期待するのは一方的で身勝手だ、と思う。しかし結局本心では期待したくなる。何らかの繋がりが欲しいと思う。
その方法を探したい。
アートスクールの他作品を急に聴いてみようと思ったが(シャーロット.e.p.が良いのか悪いのかピンとこなかったので)近所の中古CD屋では売り切れだっただけに余計。前見た時はいっぱいあったのにー。
チケットを引き換えに行ったら予想通り割と前。でもモッシュゾーンに当たっても辛い少し下がって見るだろうな…女ばかりなら倒れずにいけそうだけど、流石に男相手だと負けるわな。何よりシロップのライブで暴れる気になれない。
ほぼ力技でレポート一つ完成さす。だらだらやっていたのだが、ここらで区切りをつけないと、いい加減後がつかえているよと思い焦った。久々に集中力を発揮した。でもレポートの出来は問わないで。
先日ある番組を見ていて気付いたが、私は人間が何かを取り戻していく物語に弱い。どちらかというと精神的なものに関する物語が。見ていて普通に感動して目頭が熱くなった。
ずるずる駄目になっていく、プラスもマイナスさえも何も出てこないほどに荒廃して行く、そういうのを見るのもこちらに痛烈に訴えかけてくるものはあるが、そういうものよりも心の奥が揺さぶられる思いがする。
そして考えが改められるというか、元の地点に戻されるような感じがする。本当はそうありたいんだったと。
それに自分を重ねるのは、必死の思いで日々暮らしているその人達からすれば失礼で不愉快で自己完結的なものであると思う。こちらのは単に自意識過剰の産物であるから。それでもその番組には何か思う所はあったのだ。
悩む事すら放棄していた時期がしばらく続き、たまに悩んで幾らか真剣に取り組んでみはしても、このまま行こうと立て直せなくともどうでもいい、仕方ないんだという調子が多くを占めていた。
どうでもよくなったら終わりだなと痛感したが、何を見ても自分の心や思考が微塵も反応しない、取り立てて言いたい事もない、出力ゼロ。自分の心の表層部しか使わず生きているなという何か決定的に間違った感じだけが漠然とあった。
未必の故意ではないが、それを知りながら何もしない、そうしている内にも状況は水面下でじわじわ悪化しているのではないか、そんな危機感をうっすら抱いていた。でも立て直す気になれない。
対人関係にしても、目の前の人と交流する気も起きず、相手に興味を持つ事やこちらを知ってもらおうとする事の可能性を自ら絶っていた気がする。勝手に失望した挙句一人で諦めモードに入りどんどん閉ざしていくような、でもそれもどうしようもないよなと考えていた。
他人が全部ひと塊の背景に見えるような、繋がりを求める気も起きなかった。起きたとしてもどうしていったらいいのかわからなかった。
最近その出力がゼロから再び僅かにプラスに動き出したように思う。またゼロに戻るかもしれないけど、そういうわけにもいかないので維持したい。できたら。
周囲に対しても、こちらから歩み寄ってみて駄目だったら仕方ないと思う方がいいかもな…と。実際怖さの方が勝ってるんですが。だから初めから内にこもってた方がいいんじゃないの?とも考えてしまうわけですが。警戒心が物凄い。生活上、表面的な会話だけでも案外事足りるらしいし。でも本当はそれじゃ嫌なんだよな。
私は人の力を借りたいと思って良いのだろうか。何かを求めてまともに返事が返ってきたためしがない、何も努力せず人の優しさだとか受容だとかを期待するのは一方的で身勝手だ、と思う。しかし結局本心では期待したくなる。何らかの繋がりが欲しいと思う。
その方法を探したい。
書き込みボタンを押す前にためらう日がしょっちゅうある。
何でこんな事ばかり書いてしまうのかねえ…。
気分転換してきた方がいいのかもねえ。
今は人との会話に何かを求めているが、身近であまり話したい人も思いつかず。まあそんな時期もあるわなと自分を納得させる。そんな時期って何だよ。
あるサイトのページをブックマークしている。正当化すべきでないものを正当化しそうな時、もやもやしている時なんかに見るために。
それが何度見ても泣ける。こういうものは純粋に胸を打つ。そして次の瞬間には己と対照的だなと自分に意識が向く。
もうさあ、何でこんなんよ私?備わっていないといけないものをどこかに忘れた自分。
などというのも結局世間の目ありきで言っているのだろうかとふと自分に疑問を持つ。
12/21にも同じような事言ってるな。1/4の秘密も若干関係あり。要は家族がらみのことで。感謝する心というか大切に思う心というか、人より極端に弱い気がする。最近この事が常に頭のどこかを占めている。と読む人が引くか嫌悪感示すか呆れるかを想定済みで書いてみたが。
頭ひねる事で解決される事なのかはよくわからないが…。まあ自分の中だけで思い込みが肥大したようなものなので、その歪みを元に戻す努力をすればいいわけだよなまずは。現実は大した事ないのに単なる妄想をここまでこじらせるなんてねえ。
直したい。
「最新ビデオの棚の前で二時間以上も立ち尽くして/何も借りられない」(syrup16g「神のカルマ」)という歌詞やら、「これさえも違う」という感じやら、この所そんなものがわかる気がする心境でいる。
それは嫌だ。絶対に拒否したい。
「そんな事ないよ」「大丈夫だよ」という都合の良い言葉をどこかで待ってやしないか。待ってるね。間違いないね。ごく僅かでもね。嫌だね。そんな甘ったれた気持ちは叩き潰さなきゃね。
…何でこんな風に歪んでいるのかねえ…。
歪んでいない部分をせめて大切にしたいけど。
まあどっちみち上のような人にはなりたくないわけですが。
ライブ帰りで相変わらずこんなねえ。感想は明日書こう。
久々の学校嫌だなあ。よりによって水曜。げげ。
三宮の公開録画に行こうかと本気で考えた。結局却下の方向で。
サンテレビで放送になるとかで。京都市内に引っ越してから映らなくなった。宇治市ではぎりぎり映っていたのだが。残念。
************
と深夜に書いてから寝て、講義。十歳以上離れた人と組んだので何か気を遣う。八割がた相手が喋ってたが私もあまり話したい気分ではなかったので助かった。
この講義受けて一年で進歩した事なんかないわと容易に吐き捨てそうになるが、よくよく考えてみれば何かあるはず。というかそれを元にレポート十枚書かねばならん。十枚か。原稿用紙なら余裕なのに。
カウンセリングルームの前をうろうろしてみるが、結局一度も利用した事がない。何を相談するのかを絞ってあとで来ようと思う。
その後三宮の代わりに鴨川へ(笑)行く事にする。このさぶいのに鴨川。
川はいいねえ…。昨日カバーで聴いた「素晴らしきこの世界」が頭の中に流れる。しみじみとした気分に。
色々考えているうちに相談はしなくても良いような気になる。してみて何かしらの刺激を受けてみるのも良いと思いはするけど。ああいう所ってどんな事言われるんだろうか。
レポート用の本でも読むか。
何でこんな事ばかり書いてしまうのかねえ…。
気分転換してきた方がいいのかもねえ。
今は人との会話に何かを求めているが、身近であまり話したい人も思いつかず。まあそんな時期もあるわなと自分を納得させる。そんな時期って何だよ。
あるサイトのページをブックマークしている。正当化すべきでないものを正当化しそうな時、もやもやしている時なんかに見るために。
それが何度見ても泣ける。こういうものは純粋に胸を打つ。そして次の瞬間には己と対照的だなと自分に意識が向く。
もうさあ、何でこんなんよ私?備わっていないといけないものをどこかに忘れた自分。
などというのも結局世間の目ありきで言っているのだろうかとふと自分に疑問を持つ。
12/21にも同じような事言ってるな。1/4の秘密も若干関係あり。要は家族がらみのことで。感謝する心というか大切に思う心というか、人より極端に弱い気がする。最近この事が常に頭のどこかを占めている。と読む人が引くか嫌悪感示すか呆れるかを想定済みで書いてみたが。
頭ひねる事で解決される事なのかはよくわからないが…。まあ自分の中だけで思い込みが肥大したようなものなので、その歪みを元に戻す努力をすればいいわけだよなまずは。現実は大した事ないのに単なる妄想をここまでこじらせるなんてねえ。
直したい。
「最新ビデオの棚の前で二時間以上も立ち尽くして/何も借りられない」(syrup16g「神のカルマ」)という歌詞やら、「これさえも違う」という感じやら、この所そんなものがわかる気がする心境でいる。
それは嫌だ。絶対に拒否したい。
「そんな事ないよ」「大丈夫だよ」という都合の良い言葉をどこかで待ってやしないか。待ってるね。間違いないね。ごく僅かでもね。嫌だね。そんな甘ったれた気持ちは叩き潰さなきゃね。
…何でこんな風に歪んでいるのかねえ…。
歪んでいない部分をせめて大切にしたいけど。
まあどっちみち上のような人にはなりたくないわけですが。
ライブ帰りで相変わらずこんなねえ。感想は明日書こう。
久々の学校嫌だなあ。よりによって水曜。げげ。
三宮の公開録画に行こうかと本気で考えた。結局却下の方向で。
サンテレビで放送になるとかで。京都市内に引っ越してから映らなくなった。宇治市ではぎりぎり映っていたのだが。残念。
************
と深夜に書いてから寝て、講義。十歳以上離れた人と組んだので何か気を遣う。八割がた相手が喋ってたが私もあまり話したい気分ではなかったので助かった。
この講義受けて一年で進歩した事なんかないわと容易に吐き捨てそうになるが、よくよく考えてみれば何かあるはず。というかそれを元にレポート十枚書かねばならん。十枚か。原稿用紙なら余裕なのに。
カウンセリングルームの前をうろうろしてみるが、結局一度も利用した事がない。何を相談するのかを絞ってあとで来ようと思う。
その後三宮の代わりに鴨川へ(笑)行く事にする。このさぶいのに鴨川。
川はいいねえ…。昨日カバーで聴いた「素晴らしきこの世界」が頭の中に流れる。しみじみとした気分に。
色々考えているうちに相談はしなくても良いような気になる。してみて何かしらの刺激を受けてみるのも良いと思いはするけど。ああいう所ってどんな事言われるんだろうか。
レポート用の本でも読むか。
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何か全部ナシにしねえか ここはしんど過ぎた
2003年9月16日 煮え切らず受け入れられる経験のある人とない人とでは大きな差があるのではないかという事をふと思う。どこにいても最近落ち着かないから、その原因を探るとそこに辿り付いてしまう。都合よくそのせいにしているだけの気もする。
一番自分を悩ませている(勝手に悩んでいる)事は、他人がこちらを見る視線の中には必ずどちらかというと好ましくない感情が込められている気がしてたまらないという事で、そういう視線を感じると萎縮して余計悪循環に陥る。
考えすぎなのはわかっているけど、なので表面上は普通に笑ったりしているけど、でもそれが原因でこちらから心を閉ざしている部分があるんではないかと。その悪い傾向が最近再燃。どうもいつも落ち着かないのはもしかしたら自分のそういう所も原因になっているのではないかと。でもこれをなくすのが私には難しい。
受け入れられる事はそんなにも難しい、少なくとも自分には難しい事なんだろうかと次第に考え出し。「余る」経験ならいくらでもある。肺に泥の塊でも詰まったような重苦しさ息苦しさ、ガチガチの身動きの取れなさ、常に頭に浮かぶのはただ一つの言葉で、全部初めから無かった事にしてくれたらと(まさにタイトルのような事を)虚しく無理な事を真剣に願っていた。何でそうなったのかそれが私である必然性はどこにあるのかと限無く考えた。
そうは言ってももっと他に上手いやり方があった気もするし本当に酷かったのはほんの数年程度の事で、それにいつまでも縛られるとも思わなかったのだが、不本意でもそれをいつまでも引きずる羽目になった。
人のせいにするのはキリがないので、自分の中に原因を探す方が一応は納得する。でも人のせいにしていいのなら思い切りそうしたいなどとも思う。したところでどうなるわけでもないからまた内に向かうのかもしれないが。
こんなのであっても、普段生活していて仮に気にかけてもらえたり何かしらの共感を投げかけてもらえたとしたらこんなにも嬉しい事はないし、少しでも良いので誰かそうして欲しいなあとは時々切実に思うものの、そういうのは自分から言う事ではないし自ら言う事でその価値を下げてしまうというか、ともかく妙で気持ち悪い自己愛の表れでしかなくなるというわけで、それには私自身も我慢ならないというわけで…まあそんな事を考えたりする。
優しくされると嬉しいので、人にも優しくしようとは思う。そういう気持ちはあるけど余裕の全くない時はそれも難しい。
場の雰囲気によってバランスを取る事ばかりを最優先して重要な事をなおざりにしてしまい、それが最近過剰になりすぎている気がしてこんな事をつい思ってしまった。まあただの自意識過剰なんだろうけど。
ネットで日記を書くモチベーションが若干下がっている気がする。上のような事をこの場で書くのがやはりためらわれるせいかもしれない。考えを整理してもうちょっと続けてみるか。
なんて思ってるほど他人はこちらを見てはいないと思うんだけどねえ(苦笑)でもそれもイマイチ私の中では説得力がないし…。
一番自分を悩ませている(勝手に悩んでいる)事は、他人がこちらを見る視線の中には必ずどちらかというと好ましくない感情が込められている気がしてたまらないという事で、そういう視線を感じると萎縮して余計悪循環に陥る。
考えすぎなのはわかっているけど、なので表面上は普通に笑ったりしているけど、でもそれが原因でこちらから心を閉ざしている部分があるんではないかと。その悪い傾向が最近再燃。どうもいつも落ち着かないのはもしかしたら自分のそういう所も原因になっているのではないかと。でもこれをなくすのが私には難しい。
受け入れられる事はそんなにも難しい、少なくとも自分には難しい事なんだろうかと次第に考え出し。「余る」経験ならいくらでもある。肺に泥の塊でも詰まったような重苦しさ息苦しさ、ガチガチの身動きの取れなさ、常に頭に浮かぶのはただ一つの言葉で、全部初めから無かった事にしてくれたらと(まさにタイトルのような事を)虚しく無理な事を真剣に願っていた。何でそうなったのかそれが私である必然性はどこにあるのかと限無く考えた。
そうは言ってももっと他に上手いやり方があった気もするし本当に酷かったのはほんの数年程度の事で、それにいつまでも縛られるとも思わなかったのだが、不本意でもそれをいつまでも引きずる羽目になった。
人のせいにするのはキリがないので、自分の中に原因を探す方が一応は納得する。でも人のせいにしていいのなら思い切りそうしたいなどとも思う。したところでどうなるわけでもないからまた内に向かうのかもしれないが。
こんなのであっても、普段生活していて仮に気にかけてもらえたり何かしらの共感を投げかけてもらえたとしたらこんなにも嬉しい事はないし、少しでも良いので誰かそうして欲しいなあとは時々切実に思うものの、そういうのは自分から言う事ではないし自ら言う事でその価値を下げてしまうというか、ともかく妙で気持ち悪い自己愛の表れでしかなくなるというわけで、それには私自身も我慢ならないというわけで…まあそんな事を考えたりする。
優しくされると嬉しいので、人にも優しくしようとは思う。そういう気持ちはあるけど余裕の全くない時はそれも難しい。
場の雰囲気によってバランスを取る事ばかりを最優先して重要な事をなおざりにしてしまい、それが最近過剰になりすぎている気がしてこんな事をつい思ってしまった。まあただの自意識過剰なんだろうけど。
ネットで日記を書くモチベーションが若干下がっている気がする。上のような事をこの場で書くのがやはりためらわれるせいかもしれない。考えを整理してもうちょっと続けてみるか。
なんて思ってるほど他人はこちらを見てはいないと思うんだけどねえ(苦笑)でもそれもイマイチ私の中では説得力がないし…。
負のエネルギーをためこんで家にこもっていた。どうしても起きるのが嫌で六度寝くらいしてからよううやく二時過ぎに起床。自堕落。あとは何やってたかあまり覚えてない。多分ぼーっとしてた。
あと今頃踊る大捜査線の面白さに気付く。遅せー(笑)「ごくせん」も再放送ではまったしなあ…。
借りていたCDを返しに行く。そのついでに違うCDを物色。100円になるのかと思ってたらビデオだけだった。会計の時に非常に動揺してしまった。バクチク、ゴーイングアンダーグラウンド、ソウルフラワーユニオン、マシンガンズを借りる。はねるのトびらは流石に貸し出し中。ちぇっ。
凄く悶々と考えてしまう。自分が決定的に間違っている感じって他の人は抱かないんだろうか。それが歪んだ考え方だというのはわかっているけど、わかってるけどどうしてもその思い込みがずーっと取れない。しんどい。何だこれは。そういう間違った感じを持っているか、かつて持っていたかどっちかの人と会いたい。そして話したい。
そして色々と申し訳なさを感じてしまう。他の人に私は大丈夫だろうかとやたら確かめてみたくなる。確かめないけど。でも情けない。
今までだって何とかしてきたし、これからも同じように何とかしていくだけだし…まあわかってるけど。本当にきつい時に限って人は知らないふりするじゃん。何でまだ人の言葉を待ってるのか。
それでまだしつこく期待している自分に気付いた。浅ましいし情けない。もう自分に他愛ないメール以外禁止したい。本っ当に嫌われるぞ。迷惑だぞ。まあ直接的な事はそんなに書いてないけど…。
でも馬鹿を装ってはしゃげば皆気付かず勝手な期待をし、こっちから近寄れば少なくとも歓迎はしてない様子を見せる。じゃあどうすれば???
早目に一回止まればよかったのかもしれない、でも止まったらその先の自分が生きやすくなるとも思えなかった。環境的に。止まったら長時間そのままになるかもしれないとも思ってた。色々おおごとにするのが怖くもあった。
でもこれからどうなるのかねえ…。とりあえず、事務的でも当りさわりないでもない会話を誰かと交わしたい。でないと私はちゃんと生きてる感じがしない。
いい年して…って感じだけど。でも人とそこそこ関係を持ちたいのだけど。何でこうなってる?一時期まではそうではなかったはず。それとも私の錯覚だったのか。勝手な期待だったのか。そうかもしれないけど。
うーん…やっぱりむやみな期待は捨てたい。それで割り切って進みたい。今日は建設的なことが考えられない。もう明日とか来なくていいよ、来ても同じ事だよ。
こんな事言いながらやっぱりそういう事考える自分は間違っていると思うのだった。一斉に色んな人が呆れているような、そんな絵が見える。無理もないが。何か結局いつか淘汰されるような気がしてならない。
うーーーーー駄目だーーーーーーーー。
あと今頃踊る大捜査線の面白さに気付く。遅せー(笑)「ごくせん」も再放送ではまったしなあ…。
借りていたCDを返しに行く。そのついでに違うCDを物色。100円になるのかと思ってたらビデオだけだった。会計の時に非常に動揺してしまった。バクチク、ゴーイングアンダーグラウンド、ソウルフラワーユニオン、マシンガンズを借りる。はねるのトびらは流石に貸し出し中。ちぇっ。
凄く悶々と考えてしまう。自分が決定的に間違っている感じって他の人は抱かないんだろうか。それが歪んだ考え方だというのはわかっているけど、わかってるけどどうしてもその思い込みがずーっと取れない。しんどい。何だこれは。そういう間違った感じを持っているか、かつて持っていたかどっちかの人と会いたい。そして話したい。
そして色々と申し訳なさを感じてしまう。他の人に私は大丈夫だろうかとやたら確かめてみたくなる。確かめないけど。でも情けない。
今までだって何とかしてきたし、これからも同じように何とかしていくだけだし…まあわかってるけど。本当にきつい時に限って人は知らないふりするじゃん。何でまだ人の言葉を待ってるのか。
それでまだしつこく期待している自分に気付いた。浅ましいし情けない。もう自分に他愛ないメール以外禁止したい。本っ当に嫌われるぞ。迷惑だぞ。まあ直接的な事はそんなに書いてないけど…。
でも馬鹿を装ってはしゃげば皆気付かず勝手な期待をし、こっちから近寄れば少なくとも歓迎はしてない様子を見せる。じゃあどうすれば???
早目に一回止まればよかったのかもしれない、でも止まったらその先の自分が生きやすくなるとも思えなかった。環境的に。止まったら長時間そのままになるかもしれないとも思ってた。色々おおごとにするのが怖くもあった。
でもこれからどうなるのかねえ…。とりあえず、事務的でも当りさわりないでもない会話を誰かと交わしたい。でないと私はちゃんと生きてる感じがしない。
いい年して…って感じだけど。でも人とそこそこ関係を持ちたいのだけど。何でこうなってる?一時期まではそうではなかったはず。それとも私の錯覚だったのか。勝手な期待だったのか。そうかもしれないけど。
うーん…やっぱりむやみな期待は捨てたい。それで割り切って進みたい。今日は建設的なことが考えられない。もう明日とか来なくていいよ、来ても同じ事だよ。
こんな事言いながらやっぱりそういう事考える自分は間違っていると思うのだった。一斉に色んな人が呆れているような、そんな絵が見える。無理もないが。何か結局いつか淘汰されるような気がしてならない。
うーーーーー駄目だーーーーーーーー。
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何か物凄く疲れた。襲ってくるわけのわからない虚しさと戦いつつ(笑)書いてみます。
ああもう。ああもう。疲れたっちゅうにあの医学の講義。
もごもご喋ってるのにいきなり声が大きくなったり、そしてまたもごもご状態に戻ったり、
字はやっぱり汚いし。読めないし。親切度の限りなくゼロに近い自由さ。
前は結構偉い人だったらしいですけどあの先生。
…どうりで。(偏見)
あの3分スピーチは結構なんとかなった。見切り発車でべらべら喋った。
しかし後で思ったけど、私の心の底の方にあるのはやっぱり濃い諦めの気分なのに(20歳の言う事か!)
いざああして喋ると、ネガティブはネガティブなりに頑張りますみたいな割と生産的な内容に聞こえるのは、♪何〜故?(蒼い鳥)
やだよ頑張らねえよ。というか今までだって十分頑張ったよ。それでこの有様だよ。それしかできなかっただけだけど何にも良い事なかったよ。
やれやれ。
多分私は、寛容なふりしてる人が一番苦手なんだろう。
何にでもきちんとそつなく接してるように見えて、それでも、
自分の理解の及ばない異文化を心の中でせせら笑ってるのがちょっとした表情に出てがっかりする。
だから一つの物差しで全てを断裁して無自覚でいる人が嫌なんだってば。
まあそんな事言っても所詮は負け組みの遠吠えだな。
お前は何を言うか、と咎められそうなの覚悟で言うけどそれは一番自分がよく知っている。
自分の中の柱になっているものは、決して望ましいものでなくてもそうそう簡単には変えられない。
こう言うとまた「ものわかりのいい人」はそれを正しに来るかもしれない。もっと明るく前向きに生きなさいと。
十分前向きのつもりだ。ただ、今自分が根本に持っていて20年間付き合ってきた性質を「こんな物は嘘だ」と認めないのはよくないから、
手持ちのものを受容しようとしているだけで、それが世間で言う「前向き」「プラス思考」と若干ずれるだけの事だ。
ネガティブを根っからのポジティブに変えれば彼らは納得するのか。でも私はもう明るく正しくは生きられない。
ネガティブはネガティブなりにどう生きるかを考える、それは本心だしそれをもって私は「前向き」と名付けるわけだけど、
なんで根っこからポジティブに変えようと努力しないの?とそちらの文化を押し付けるのはやめて下さい。
今まで積み重ねてきたものをほっぽりだして簡単に鞍替えできるだけの基盤は持ってません。取ってつけてもたちまち崩れるのは歴然です。
あなた達が思うよりは一応地味ながらちゃんと生きてきたつもりです。
長々と誰に向けて言ってるのやら。わかりづらい。
こういう感覚って馬鹿馬鹿しいしどうでもいいと感じる人の方が多いんだろうなと。いいけど。
プラの例の「新曲」今日発売ですか。
ライブでスザンヌ・ヴェガのカバーやってるらしいし、それプラスなら(それでも魂胆が嫌だけど)ちょっと気持ち揺らいだかもなあ〜。
あるいは「祈り」くらい思い切り作りこんでみたりとか。そういう方向の曲ではないけど。
ええわかってますよ。そんな風に新しくレコーディングするだけの余裕があるのなら初めからこんな企画は通りません、きっと。
どーーーしても「贈るっ言葉っ♪」を髣髴とするんだが。
買わない人に発言権ナシですか。さいですか。
あのPVをおしゃれと言ってた人いたけど、寧ろ垢抜けな(殴)
だって今までの系譜にないチープなバリバリの原色使いがさ。年次順に見ていって「うわこのアイディア素敵だなあ〜色綺麗だなあ〜…へっ?あら?」となるの必至。
まあ「お金あるんだね〜」しか感想の出てこないPVよりはマシ。しかしアイディア勝負で曲の雰囲気に合わせる必要ありとはいえ、ちょっとね。
でもファンは「PV付きますもんね」とか何とか誉めポイント探して必死に「否定なんかしない、しないわ!」と本心隠そう隠そうと頑張るのかと思ったら、そうでもなくて意外。一時期結構意見出てたな。
だって完全に同一化しちゃってる人いるじゃん。自分の好きなもの否定したら自分そのものまで否定される心地のするという。私も昔はそうだったけど。
アルバムに期待という事で。あの2曲は入るのか。浮かないかなあ。
いっそ全編新曲というのもありがたい。その際は存分に自分たちの音楽を創って下さい。楽しみにしてます。
今学校で使っているパソコン、ディスプレイの裏にフロッピー入れる所があるのですが、
その横にダミーかお前!と突っ込みたくなる差込口がありまして、毎日必ず誰かが引っかかってる模様です。今も向かいの人が困ってます。
というか私もほんの一月前にまんまと間違えたし。「お、おかしいぞこれ」と迷いながらもフロッピーをひたすら奥へ奥へ。もう指が届かないくらい奥へ。
半死状態のフロッピーを救って下さった職員さん、どうもお手数かけました(爆)
さきほど私と同じ轍を踏みそうな見知らぬ方がおられたので、間一髪教えて差し上げました。
ちょっといい気分(何)
ああもう。ああもう。疲れたっちゅうにあの医学の講義。
もごもご喋ってるのにいきなり声が大きくなったり、そしてまたもごもご状態に戻ったり、
字はやっぱり汚いし。読めないし。親切度の限りなくゼロに近い自由さ。
前は結構偉い人だったらしいですけどあの先生。
…どうりで。(偏見)
あの3分スピーチは結構なんとかなった。見切り発車でべらべら喋った。
しかし後で思ったけど、私の心の底の方にあるのはやっぱり濃い諦めの気分なのに(20歳の言う事か!)
いざああして喋ると、ネガティブはネガティブなりに頑張りますみたいな割と生産的な内容に聞こえるのは、♪何〜故?(蒼い鳥)
やだよ頑張らねえよ。というか今までだって十分頑張ったよ。それでこの有様だよ。それしかできなかっただけだけど何にも良い事なかったよ。
やれやれ。
多分私は、寛容なふりしてる人が一番苦手なんだろう。
何にでもきちんとそつなく接してるように見えて、それでも、
自分の理解の及ばない異文化を心の中でせせら笑ってるのがちょっとした表情に出てがっかりする。
だから一つの物差しで全てを断裁して無自覚でいる人が嫌なんだってば。
まあそんな事言っても所詮は負け組みの遠吠えだな。
お前は何を言うか、と咎められそうなの覚悟で言うけどそれは一番自分がよく知っている。
自分の中の柱になっているものは、決して望ましいものでなくてもそうそう簡単には変えられない。
こう言うとまた「ものわかりのいい人」はそれを正しに来るかもしれない。もっと明るく前向きに生きなさいと。
十分前向きのつもりだ。ただ、今自分が根本に持っていて20年間付き合ってきた性質を「こんな物は嘘だ」と認めないのはよくないから、
手持ちのものを受容しようとしているだけで、それが世間で言う「前向き」「プラス思考」と若干ずれるだけの事だ。
ネガティブを根っからのポジティブに変えれば彼らは納得するのか。でも私はもう明るく正しくは生きられない。
ネガティブはネガティブなりにどう生きるかを考える、それは本心だしそれをもって私は「前向き」と名付けるわけだけど、
なんで根っこからポジティブに変えようと努力しないの?とそちらの文化を押し付けるのはやめて下さい。
今まで積み重ねてきたものをほっぽりだして簡単に鞍替えできるだけの基盤は持ってません。取ってつけてもたちまち崩れるのは歴然です。
あなた達が思うよりは一応地味ながらちゃんと生きてきたつもりです。
長々と誰に向けて言ってるのやら。わかりづらい。
こういう感覚って馬鹿馬鹿しいしどうでもいいと感じる人の方が多いんだろうなと。いいけど。
プラの例の「新曲」今日発売ですか。
ライブでスザンヌ・ヴェガのカバーやってるらしいし、それプラスなら(それでも魂胆が嫌だけど)ちょっと気持ち揺らいだかもなあ〜。
あるいは「祈り」くらい思い切り作りこんでみたりとか。そういう方向の曲ではないけど。
ええわかってますよ。そんな風に新しくレコーディングするだけの余裕があるのなら初めからこんな企画は通りません、きっと。
どーーーしても「贈るっ言葉っ♪」を髣髴とするんだが。
買わない人に発言権ナシですか。さいですか。
あのPVをおしゃれと言ってた人いたけど、寧ろ垢抜けな(殴)
だって今までの系譜にないチープなバリバリの原色使いがさ。年次順に見ていって「うわこのアイディア素敵だなあ〜色綺麗だなあ〜…へっ?あら?」となるの必至。
まあ「お金あるんだね〜」しか感想の出てこないPVよりはマシ。しかしアイディア勝負で曲の雰囲気に合わせる必要ありとはいえ、ちょっとね。
でもファンは「PV付きますもんね」とか何とか誉めポイント探して必死に「否定なんかしない、しないわ!」と本心隠そう隠そうと頑張るのかと思ったら、そうでもなくて意外。一時期結構意見出てたな。
だって完全に同一化しちゃってる人いるじゃん。自分の好きなもの否定したら自分そのものまで否定される心地のするという。私も昔はそうだったけど。
アルバムに期待という事で。あの2曲は入るのか。浮かないかなあ。
いっそ全編新曲というのもありがたい。その際は存分に自分たちの音楽を創って下さい。楽しみにしてます。
今学校で使っているパソコン、ディスプレイの裏にフロッピー入れる所があるのですが、
その横にダミーかお前!と突っ込みたくなる差込口がありまして、毎日必ず誰かが引っかかってる模様です。今も向かいの人が困ってます。
というか私もほんの一月前にまんまと間違えたし。「お、おかしいぞこれ」と迷いながらもフロッピーをひたすら奥へ奥へ。もう指が届かないくらい奥へ。
半死状態のフロッピーを救って下さった職員さん、どうもお手数かけました(爆)
さきほど私と同じ轍を踏みそうな見知らぬ方がおられたので、間一髪教えて差し上げました。
ちょっといい気分(何)
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