ISBN:4061983814 文庫 講談社 2004/09 ¥1,365

再読したいけど妹の元から返ってこない。
これが初めて手にした色川作品だったわけですが、夏場のあっつい部屋で蒸されながら読んでました。そういう自分いいなとか思ってたわけで、その点は若いですが、今読んでも当時と変わらない鮮烈さや凄みを感じるんじゃないかと思う。根本的な部分に持ち続けている興味はあまり変化してないはずだから。

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主人公は精神病院に入院中の男性である。子供の頃父親の破産により一家離散し、さまざまな職業を転々とする。知り合った女性との婚約に大きな喜びを感じるも、彼女は死んでしまう。主人公は確固たる居場所をなかなか手に入れられない。多くの現実を消化しきれないまま、正気と狂気の間を行き交う日々を過ごすなかで、同じ病人の圭子と出会い、圭子の退院と共に彼女の同居人となる。そうしてようやく安息を得られるかと思うのだが…。

やはりここに描かれる幻覚があまりに変化に富んでいるのには衝撃を受けた。どう逃げ回っても追ってくる機関車、壁にへばりついた字が天井に来た母艦に吸われていく幻覚、体に吸い付く蟹の大群等、私の乏しい想像力をはるかに越える物ばかりで、これほど凄いものかと驚かされる。

しかしそれだけに終わらない。主人公の、折り合いのつかないままわだかまっている種々の物事、それが孤独の渦を巻いている。ずるずると終わりのない苦しさはこちらの心の奥までひたひたと迫ってきた。淡々と綴られ、やたら感情的になるわけでもない。それがかえってこちらにまっすぐ訴えかけてくる。
「限りなくひとりの世界に安住しようとする性情と、人並みに近親や相棒を必要とするところと、自分は欲をはってどちらも捨てきれない」「自分は、両親も、弟妹も(中略)誰をも、本当に知らずに、また彼らにも知らせず、ぽつんと生きてきた。それが、憎い」…きりなく引用できるほど、主人公の思いが切実に渦巻いている。
他人を信じきれないと言いつつ完全に背を向けているのではない。妙に厭世的を気取るのでもなく、「死ぬまで個々のケースを歩いていくだけだ」と言う反面「誰かとつながりたい」と切に願う。その二つの間で板ばさみになりながらも生きなければならない。そこに「弧絶」の苦しさをひしひしと感じる。「人間の感情などというもの、つまるところは単純、素朴なもので、弧絶、それだけだ」この一文には、とても殺伐とした寂しさ、埋めがたい空白が目の前に突然広げられたようで、ぐっと胸につまるものを覚えた。
「完全な狂人となって、正気を失ったまま日が送れたらどんなに楽だろう」という言葉の凄みに強く揺さぶられたのは、それが一時的な慰みではなく、生死を賭けたような切実さから発せられるものだからだろうと思う。

おかしいのは自分だけなのか。他の人もこんな事を感じているのか。主人公は何度も問いかける。それは外へというより、自分の奥底の、どうにも始末のつかない心の核心部分への問いかけのように感じられた。(2001.12.27)

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人と繋がりたいというひたむきな思い、孤絶を実感する事の凄みなどがとにかく真正面から迫ってくる、重みのある感情の渦巻く一冊。見物気分ではいられなくなり、目線が主人公と同じ地点まで引き下ろされ、真剣な心で向き合ってしまった。個人が、それから個人と個人が生きるって何なんだろうなあと考えさせられる。
小説を読む意義みたいなものを、こういう作品に出会った時に私は純粋に感じるような気がする。
ISBN:4063613097 コミック 講談社 2005/02/04 ¥560

『ヒミズ』には期待していたよりはのめり込めなかったけど、これは一気に四巻まで揃えてしまった。遡って他の作品も集めてしまいそうなほど(ちょっと系統違うようだけど)。青春時代の濃密で張り詰めた時間が生々しく描かれている。

日常の暗部や人の心の闇というようなものはごくごく普通でありすぐ隣に転がっているもので、それは人間にとってメインでもなければ例外でもないという態度をとっているような感じがした。
それから人の地の部分が瞬間的にくわっと表出されるような表情の描き方が特徴的で、やっぱり凄いなあと思わせられる。ところどころに散りばめられるギャグセンスもさすが。そういう所に漫画という形式を取る必然性みたいなものを感じる。

青春物は苦手だけど、ステレオタイプでもセンセーショナルでもない地に足の着いたリアリティーの描き方に惹かれた。主人公の感覚がまっとうというか妙に毒されていなくて健全なのも、すっと読める一因なんだと思う。それは今の所まではこの漫画にとって一貫したトーンでもあり、それが今後どう展開していくのかが気になる。大きく踏み外して転落していく事はないだろうと何となく予測しているけど、早く続きを読みたい。
ISBN:4043726023 文庫 角川書店 2004/06 ¥420

夫・タクジとの子供を妊娠したことが判明し浮かれるサエコの家に、タクジの姉・実夏子が突然訪れてくる。不審な行動を繰り返す実夏。その言動に対して何も言わない夫に苛つき、サエコの心はかき乱されていく…。


友人に借りて読んだ中の一冊。
    
メインで登場する三人のうちどれにも魅力を感じる事ができなかった。いきなり訪れたと思ったら妊娠中のサエコの浮かれた気分を台無しにする言葉をしれっとして吐いたり、夜中に奇妙な行動をしたりしてサエコにストレスを与える実夏子はもちろんだが、そのサエコも大学時代に「足りないと思っていた何かが」あると幻想めいたものを勝手に感じて浮浪者生活をしている「鉄男」にくっついて回ったが、ある日それは勘違いだったと気付いて鉄男を罵り元の生活に戻ったといったように、中身のないまま何だかご都合主義でふわふわ生きてきた印象がある。一方でタクジは自分や妻など身近な人の問題についても「人間ていうのは」などと一般論や他人事のようなものの言い方をする(個人的にはこういう人が一番苦手だ)人間である。
ダメ人間は割と好きなんだけど、こういう意味で駄目な人達とは付き合っていきたくない…と思う反面、自分に関していくらか心当たりがあるから好きになれないのでは、という見方もできるのかもしれない。言ってみれば愛すべきダメ人間と、ダメさが長所になり得ない決定的に嫌な人とに区別できるような感じで。角田さんは後者の人間描写が上手いという事なのかもしれない。

さまざまなエピソードがごつごつと並べられ、それらが互いの結びつきや物語としての一貫性を持たない(ように感じた)のは、サエコの心の混乱状態や世界の見え方を表していると解釈したらいいのだろうか、でもちょっと読みづらくて最後まで興味が持続しなかった。角田作品って全部こういう感じなのだろうか。
でも『キッドナップ・ツアー』は読んでみたい。
いわゆる「社会的弱者」、マイノリティをめぐる問題について、主に障害者、部落問題、言葉狩りの問題が語られている。言葉狩りも興味深いけど、特に障害者についての第1章は熱心に読んでしまった。最初の数十ページがどことなく乱暴に見え、大丈夫だろうかと余計な疑念を抱きもしたし多少「?」な表現もあったものの、障害者を扱った番組や物語の結末が感動的であたたかくまとめあげられる傾向や、「障害は個性」という言い回しへ感じる違和感についてどう考えればいいのか、という疑問を考えるための材料となるような鋭い指摘に、なるほどとうなずく箇所が多くあった。

「感動」を前面に打ち出したものが受ける事に違和感を覚えているのは、結局はそういう話の受け手は問題に真正面から向き合おうとしているわけはなく、あくまで自分のために消費しているだけではないか、と私はそんなうがった見方をしているせいだ。いい話を見聞きして、世の中こういう人もいるんだと自分の中のポジティブな部分を引き出そうとする心の動きは私にもあるのだから、自分の事を棚に上げるようで気が引けるけど。
「障害は個性」について、「この場合の『個性という言葉の使い方には、(略)その人のすぐれた持ち味とか美点といったニュアンスがことさらこめられている。しかし、障害は勝ち取られた特性でもなければ、持って生まれた美点でもないから、そういう意味では『個性』などとは言えない。(略)それを過剰に重苦しく考えていても生き抜く力は生まれてこないが、逆に。ことさらポジティヴなものと見なそうとしても、不自然さが際立つだけで、本人の不遇感や周囲とのバリアーがたやすく払拭されるわけではない」という部分はすとんと腑に落ちたものの、欠損を「他人の同情を借りる以前に自分の『長所』として現実に生かしうる力を持つ者だけが、それを『長所』と実感できる」のであるという見方はやっぱり厳格に過ぎるかもな…と少し思う。

そのように障害を持つ人など「社会的弱者」を眼前にした時のこちら側の過剰なこわばりや複雑な心理、または「弱者」に括られる側の人達の心理に焦点を当て、共同体の外部あるいは内部から行なわれる「聖化」についてシビアに仔細に検討し筋道立てて論じ、弱者とは一体何なのかという問いを突き詰めていく。
小浜氏は単にそうした傾向への糾弾の姿勢をとっているわけではない。「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みはわからない」という言葉を引き、「被差別者でなければ差別者の側に括られるといった単純二分法」に疑問を呈した部分にははっとした。「自分がそのことを問題にしようとする必然性はどこにあるかということを、自らの経験と感覚のなかに問い尋ね」、「その人が具体的にどのような形で『弱者』性を内在させているか」を見つめる事が、差別者/被差別者という二項対立から抜け出し、「障害者」という括りとして接するのではなく個人と個人が向き合うために必要であると説かれている。ってそう書くととても当然の結論に落ち着いたように思えてしまうけど。差別でも称揚でもない、両者のせめぎ合いを自分の中に同時に持っておけるバランス感覚の難しさと重要さを再認識した。

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ところで私的な話ですが、障害者と関わる場にいる事によって、その人やその周囲の人達との良い関係を築くにはどうしていけばいいのか、そもそも良い関係を心底から築きたいと思っているのか、などの執着が私にはある。その執着を解消する事を求めているのだけど、厳しく探求し自分や相手の欺瞞を暴く事がいい事なのだろうか?かえって衝突したり他の介護者などから白い目で見られたりしないか?などと思うとなあなあにしとく必要性もたまにはあるのかもなあなんて思いもする。
「『障害』者」とか「障碍者」とかという言い回しも何となく好かないんだけど、何故私はそれを好かないのか、何故あなたはそういう言葉を使うのか、という事を厳密さを求めて周りに尋ねまくっていたら煙たがられそうだ。私がそんな風にしたがるのは、障害を持つ人達と共に生きるためのよりよいやり方を実際の関わりを通して磨くよりは、机の上で考える事の対象として見ている側面の方がやや強いからなのだと思う。
それを思うと、何だかなあ…あんまり良くないよなあ私…と思ってしまうわけですが…。
ISBN:4167557010 文庫 小川 洋子 文芸春秋 1994/02 ¥420

恐らく妹のつけている日記なのだろう。出産を控えた姉とその妹、姉の夫による、出産までの記録である。

姉は元々神経質で、約十年間に渡って精神科医の所に通っているが、妊娠の為にそれがよりいっそう激しくなっている。匂い全てに異常に敏感になり、苦しがって泣き始める。ものが一切食べられなくなる。その時期が終わると今度はひたすらに食欲が増し、「食べる」というよりも、食べ物を休み無く「補充する」というのに近い行為を繰り返す。土砂降りの夜に、急に枇杷のシャーベットが食べたいと訴えだしたりする。
妹と、姉の夫の二人はその姉の要求にただ付き合う。弱々しい印象のある夫は、雨の中シャーベットを探しに出かける。特に妹はとにかく姉の神経質さに反抗しない。泣いている姉を慰め、化粧品や石鹸等の匂いのあるものは残らず姉から遠ざける。キッチンを使う事をやめ、庭で食事をとる事にする。一転して食欲を回復させた姉の為に、空っぽ同然のキッチンストッカーから、どうにか食べられそうな物を見つけようとする。

しかし、その妹の行為から、ほっと安らぐような優しさや温かさを感じとれないのは何故だろう。そういえばこの物語自体、妊娠を通じて心に感じられる喜びや決意や責任感、困難だけれど胸を震わせるような期待感等で埋め尽くされてはいない。(そういう話だと思っていたので今まで手に取らなかったのだが)むしろそういうものは全く描かれていないに等しい。
姉を通じて妊娠の経過を知る妹も、その当事者である姉も(取り乱しはするが)どこか冷静だ。「おめでとう」の言葉に辞書をひき「それ自体には、何の意味もないのね」とつぶやき、赤ん坊を「染色体」としてしか認識できない妹や、産まれてくる子供がもしも指がくっついていたりシャム双生児だったりしたならと恐ろしい想像を、しかも普段の他愛もない話をするのと同じように、次々に口にする姉の様子を見ると、妊娠とは実態の掴めない、ぐにゃぐにゃ変形する、未知の巨大な生き物のように思えてしまう。五ヶ月目のお祝いの日にも、盛り上がっているのは夫の両親だけで、当の三人だけが実感から隔離され、周りを取り囲む人々の笑顔を、まるで硝子一枚隔てて眺めているかのような、互いの感情の呼応しなさを感じる。

子を持つ事が、即喜びばかりでない事は私にも解るが、しかしこの状況にはそれ以前のものを感じるのだ。真っ白で柔らかな産着や笑顔、新しい命というものよりは、白く冷たい病院のタイルや手術道具等の方が何だかしっくりくる。

妹は、日に日に食欲を増幅させる姉の為に、大量のアメリカ産グレープフルーツでジャムを作る。妹の頭の中では、そのグレープフルーツには防かび剤PWHが使われており、染色体をも破壊するという警告の記事と、目の前のジャムの鍋と、姉のおなかの中の子供の事とが結びつく。そうと知りながら姉にジャムを作りつづける妹の行為は、呪いをかけている姿を連想させた。しかし「呪い」などという、強烈で濃い感情を伴うものに例えるのは誤解を招く事かもしれない。そういう毒々しい感情が露わにされているわけではないからだ。姉の体内でPWHは着々と堆積していく。しかしそれはきっと目にはっきり見える変化としては現れてこない程度であるだろう。その微かな破壊を知っているのは妹だけだし、その進行状況は恐らく赤ん坊や姉よりも、妹の頭の中で明瞭な映像として膨れ上がっていくものだろう。ささやかな侵蝕は、実体は伴わないものの、むしろ妹の中で進行していくものかもしれない。(2002.3.14)

夫婦茶碗/町田康

2004年12月12日 読書
ISBN:4101319316 文庫 町田 康 新潮社 2001/04 ¥420

生活に困り妻になじられながら、茶碗洗いの仕事をひらめいてみたりペンキ塗りの仕事についたりするが上手く行かず、クリエイティブな仕事をしようと思い立ち童話作家を目指す事にした男の話。

漫談調のような独り言のような文体に強力に吸い寄せられるようにして一気に読めた。新しいものと古いものとが消化されて渾然一体となったような勢いのある語り口。時々くどくどしい部分もあるので、個人的には気分によっては放り出すかもしれないとは思ったが、今回は面白く読めた。その文体が町田康の一番の読みどころなのかとも初めは感じたが、そういう文体を取り去ってみても、冷蔵庫の卵の並べ方に悩んだり、生活にうるおいをという事で駄洒落を多用した会話を妻としていくうちにだんだんとコミュニケーションが破綻していったり、という場面の選び取り方自体も面白く感じた。

主人公は交通状況がひどくて殺伐とした町に住んでいる。狭い道を自転車がこちらに突撃してきてはそ知らぬ顔をしていたり、事故が珍しくなかったりする。しかしその人が事故に遭ったり死んだりしていく様が(腰からもげたり、土手を転がりながら線路に飛び出たり)、生の重みと切り離されて物語の奇妙な雰囲気を演出するための一つの風景として、どことなく美的なものとして書かれているのが印象的。エキセントリックで狂気じみた風を演出したりする所も。それがいいと思った。小説だからこそですけど。

思ったよりも面白かったです。ただこの手の小説は面白いには違いないのだけど、どこか冷静な目で観察するように読んでしまうところが最近の私にはあるのだった。
ISBN:4314009586 単行本 斎藤 美奈子 紀伊国屋書店 2004/02/18 ¥1,680

小説を、ストーリーや人物描写や構成などの視点から見るのではなく、そこに登場する商品の描かれ方に着目するという切り口で論じられているのが新鮮で面白く読めた。ファッション、食べ物、ホテル、音楽など。久々の文芸評論とかで、いつもの歯に衣着せぬ口調がおさえられている。そのためか一読した感じでは物足りなく思ったが、よく考えるとそれはそれで良いなと思う。
最後まで気にかかったのが、ここまできれいに類型化できるものかという点だ。例えばファッション小説は三つのパターンに分類できるといったような論の進め方で、なるほどなるほどと感心する一方で、もしかしたら結論が先行している事はないだろうかと疑いの念を頭のどこかに置いて、賛同しすぎずできるだけ冷静に読もうとせずにはいられなかった。これは誰の本を読む時でもそうで、その著者の恣意的な視点が強く出すぎる事も時にはあると思うからだ。
面白いと思ったのは、ブランドイメージの固まっている商品が登場する小説の傾向とか、野球小説が何故小説に向いているかといった指摘で、確かにそうだなあと興味深く読めた。
でも『趣味は読書。』あたりの方が読後の充実感は上だったかな。

あまり関係はないが、9章「貧乏小説」のところの、読む事や書く事の意味について触れられてある箇所には強くうなづいてしまったし、本全体として見ても上手いまとめになっていると感じた。「人間の尊厳を取り戻すため」というのは多少言いすぎの感もあるし、意見が分かれる所だろうけど、私はそういった作業は生活の中から失われてはいけないと思っているのだ。
社会人となる日が近づいているせいか本当にしょっちゅう考える事だけど、仕事を始めたとしても私は実用性の全くない本を読んでいたいと思うからだ。実際にはくたくたに疲れきってそれどころではないかもしれない。だからさくっと読めるエンタメ系の本ばかりに流れるか(それも好きなんですけどね)、悪くすると全く読む気力がなくなるか、というかなり確実と思える予測を立てている。
でも本は読んでいきたい、役に立たないようなこだわりを捨てる事はできればしたくない、と改めて考えてしまったのでした。
ISBN:4894532476 単行本 渡辺 一史 北海道新聞社 2003/03 ¥1,890

筋ジストロフィーという難病を抱え、24時間介護を必要とする鹿野靖明さんという障害者と、その介護ボランティアの学生との日々を書いたノンフィクション。この本に書かれている人と人との関わり方は非常に豊かで重く、自分自身が障害者の介護に携わっているせいか本当に熱心に読んでしまった。

読むとわかるが、この鹿野さんという人の放つエネルギーは凄まじいものがある。それは「生きるため」というところから発しているものとは言えるが、それはわがままさや貪欲さ、ふてぶてしさや葛藤などを思い切り含んだものである。そんな鹿野さんを中心とした集まりが生易しいもので終わるはずはなく、そのやり取りのあまりの濃さや真剣さには、壮絶さを感じて圧倒される事もしばしばだった。
本書には鹿野家の時間の移り変わりや空気までもが濃く渦を巻いているようで、きれいな枠に整然とおさめようとするはしからはみ出ていくようなパワーに溢れている。人とのふれあい、と言うとそれさえすれば無条件でなにものかが得られるというようなあたたかい響きがあるか、或いは偽善的だという反発を呼ぶか、反応はさまざまだろうが、どちらにしても抽象的な言葉に聞える。しかし人との関係というのは障害者を相手にしたからといって特別なものが発生するほどでもなく、実際には目の前の未知の相手と関わるというもっと生々しいもので、煮詰まったような感情や血の通った濃い思いがつめこまれていたりするものなのだという事がひしひしと感じられた。
そんな人と関わるなら当たり前の事が、障害者をいつも肯定するべき存在として無理に思いつめていた所が私にあったために、とても新鮮に映ったのだ。

読んでいくうちに、人の手を借りる事を当然の権利として考え、相手の気持ちを考えないようなふしがあるように感じ、この人には最後まで賛同できないのではないかという思いがよぎった。だが読み進めていき、その自己主張の強さの裏には、障害者は自分の人生を全て周囲の人に先回りして決定されてきたという苦い現実があり、鹿野さんの主張は単純にわがままだと切り捨てられないような、まさに自分が自分の人生を引き受けているという実感を取り戻すための切迫した行為であり、24時間プライベートのない中でぎりぎりの思いで自分自身を維持しているのだと知り、物凄くはっとする思いがした。
また賛同できない事が気にかかったというのは、相手の意見に賛同できない時に、その相手が障害者の場合には何故かこちらが間違っているような気がわけもなくしていたためである。だがそれも思い込みであり、結局は性格や考え方の合う合わないにいくらかは帰結させてもいいのだな、と思った。

「一人の不幸な人間は、もう一人の不幸な人間を見つけて幸せになる」という介護者自身の言葉が登場するのが印象に残った。そこまで踏み込んで指摘していいものかどうか迷うような所までが包み隠さず語られていたのが衝撃的だった。この言葉は本書の内容をいくらか象徴しているだろう。もちろんそれが全てというわけでは決してない。しかしそういう側面がある事を切り捨てる事で、人との関係をめぐる感情の動きを美化するのは嘘だと思う。これはいわゆる美談ではなく、命の大切さを屈託なく感じさせてくれる本ではないから毎日忙しく暮らしている人には面倒くさく手に取る事もないのかもしれないが、単純な一枚岩的な「いい話」よりは物凄く考えさせられ学ぶところも多かったと思う。
著者の渡辺さんの筆力によるところも大きい。都合の良い美しい結論に容易に流れていきたい気持ちを食い止めるようにして、最後まで色んな答えの間を揺れながら真摯に書かれているのが、とても良いなと思った。

障害者像だけでなく、介護者像に対する強迫的なイメージ(過剰に優しさを演出しないといけないような)の偏りを取り払ってくれた一冊。

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自分自身に関しては、相変わらず何とかやれてはいる。辞める人が多くて先日も二人辞めたところで、あまりの人手不足を目の当たりにし来月は初めて二枠入る事にした。
しかし仕事を始めたらきっと入らなくなるだろう。仕事でも休日でも介護というのもしんどいし、何より現在通っているお宅に私はまだ慣れないでいる。一時期姿勢を立て直せたものの、やっぱり私は勉強のためや、自分に課題を課す意味でこの介護を引き受けている側面が大きい。決してほっとするから会いに行っているなんて言えない。何より家族の方が怖いのが苦手だ。互いのけんか(というより家族の方に一方的にこづかれている)のを見るのもしんどい。
それならそれで、せめて後に続く人を確保してから去るのが私の責任だろうと思う。先日も一年生の子と一緒に入ったし、来月は他大学まで新歓のために足を運んでスピーチか何かする予定だ。頑張らないといけないなと思う。
ISBN:4101131147 文庫 北 杜夫 新潮社 1975/09 ¥420

こういうタイトルに弱いんでしょうか、ブックオフで即手に取った一冊。PlasticTreeの「サイコガーデン」という曲に「髪のない少女 天井の裏/汚れてる絵本から 素敵な言葉を選び出す」という歌詞があって、それを連想しながらレジで精算してもらいました。

北氏の『幽霊』を少しだけ読んだ印象が強くて繊細な作風の人かと思ったんだけど、実際は上の想像のような話でも何でもなく、表題作は忍者部隊に憧れて天井裏に秘密基地を作る少年達の話。子供の頃に特有の、現実と空想が入り混じる様子を書いていて面白かったし的確だとは思ったけど、珍しいテーマではないかなと思って特に感慨もなく読み終える。ただいくつか読んだ印象では、北氏の書く少年少女は泥遊びをするだとかの自然の匂いがする感じではなく、どこか育ちがいいというか甘美なノスタルジアを感じるというか、主観的な例えで申し訳ないけど江戸川乱歩の世界に感じたのと近いものを感じる。

好きなのは父親(知らなかった)である斎藤茂吉の死の前後についての「死」と、そっけない娘とカラコロム登山の事を書いた「白毛」で、どちらも私小説との事。最近は落ち着いたものを好むみたいで、描写の丁寧さや地に足がついた感じが自分の気分には丁度良かった。特に「死」が良かった。斎藤茂吉って父親としては随分厳しい人だったんだなあと驚いたけど、そういう描写が続く中にも北氏は人間に対するユーモラスな視点を常に忘れない人のように思えた。
精神病院の院長が患者の治療のために映画撮影を提案する「もぐら」も、主人公のロクさんの人柄のおかしみが良いなあと思ったけど、これは病名を解説する部分が出てくるたびにどこかこちらの調子を狂わされた思いがした。まるで「説明しよう!」という声が聞えてきそうで、多少不自然。それがなければかなり好きなのにと惜しく思った。
写真は「華麗な生活」の方ですが、「優雅な」の方が好きかもしれない。以下長すぎる引用。

江分利は、父と並んで歩きたくないとは思わないのだが、足が萎えてしまったようでふらふらやってくる父と、前のめりで早足になるのが癖の江分利とでは、自然に距離ができてしまう。20メートルか30メートルうしろで、鼻水をたらしながら、総入歯の口をキュッとかみしめながら、おくれまいと必死にがんばっている父を江分利は背中に感ずる。江分利は立ち止まったり、靴紐を直したり、本屋をのぞいたりして距離のちぢまるのを待つ。その待っている間が、江分利の生活のなかで父のことを考える短い時間のようになっているのを感ずる。

いま、父が死んだら、どうだろうか。同じ肉親を喪うにしてもタイミングによってショックがずいぶん違うのではなかろうか。いま父が死んでも、江分利は、父が死んだというよりは、1人の男の一生が終ったという感慨の方が強いだろう。悲しみの内容がちがう。涙の質がちがう。

老年ということがある。そして老醜という言葉がある。「老醜」ということを江分利はむしろ有難いと思うことがある。いつまでも立派でやさしい父母であるならば、その死は江分利のような脆い人間には全く耐えがたい。母の死の打撃については前に書いた。もう一度あのショックを父で味わうのは、全く耐えがたい。父がすこし狂っていて、エゴイストで、急にみみっちくなり、吝嗇漢になったことを、いわば「老醜」のサンプルみたいな人間になったことを、江分利は心のどこかで感謝しているような気配がある。人間というのはなかなかよくできている、と江分利は思う。年老いて、心が汚くなり、心がおとろえ、みにくくなっていくのは、これも自然ではなかろうか。そして、いつかは庄助も江分利に対して老醜を感ずる時期がやってくるのだろう。

父と江分利とではタイプと生きた時代が違うのであって、父は悪い人間ではない。江分利は、この期に及んで、ふたたび父が実業家としてのヤル気を起こされることが怖ろしいだけだ。だから、その考えを押えつけたい一心なのだ。江分利と夏子と庄助には江分利を中心としたひとつの世界がある。これをこわしてもらいたくないのだ。父がふたたび起つことは破滅である。もしかりに、父が奇跡のカムバックに成功して実業界に返り咲くことがあっても、それは江分利と夏子と庄助にとって破滅なのだ。


実業家としての大失敗が一家離散の原因となり、母に死ぬ直前まで心配をかけた父についての複雑な思いが書かれた「いろいろ有難う」や、母の突然の死への後悔と外国人留学生と言葉少なに語り合った夜の事を書いた「おふくろのうた」にはぐっとくるものがあった。江分利氏と同じ実感を得るには明らかに経験の重みも思いの内容も違うから、涙するのは図々しく本当の意味での感動ではないようにも思うものの。

山口氏のこのきびきびした文の運びが気持ちいい。なので長々と引用してしまった。きちっとしながらも時々自ら茶化したり、冷静なようでその隙間から哀愁が強くにじんだりという文体は江分利満という人間そのものなのだと感じる。
ずしっと腹にこたえる渋みがあり、それが良くて再読してしまった。こういう渋みを持った人は私にとって憧れでもある。「優雅」というのはいくらか自嘲混じりかもしれない。社宅暮らしのごく普通のサラリーマンの地味な日常を誇張も何もせずにただ書くだけなのにそれが上手く、なかなかできない事のように思わせられた。やるせない、切ない、哀しい、おかしい、重い、あたたかい、色んな思いが折り重なる。
柳原良平さんの絵もぴったり。携帯にトリスおじさんをぶらさげているので、この点でもかなり愛しい一冊。

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頭はひどく痛く、気持ちは寂しい。やる事が山積みになると逃げ腰になる。
折角の休日なのに頭痛をまぎらわすために横になって過ごした。
寒いのでこたつを出す。
鉄腕ダッシュの動物とのキャッチボールを見ていると少し気分がましになる。
だけど動物っていいなと思うのもどこか現実逃避である気がするな。
幼少期の間引きされかける経験、それゆえの自分を脅かし責めたてる存在としての故郷というイメージ、過去の恋人の自殺
それらの経験により自分自身や恋人について罪意識を根深く抱え込んでいる五十代の男と、その家族とを中心にした物語
贖罪の必要性が男によって徹底して語られる。しかし男に起こった出来事の内容を検討すると、男は一方的に罪を償うべき人間ではなく、同時に救いをも必要としていい人間であるという視点を欠かしてはいけない、という事を思った。

男は最終章で、自分に愛情を注ぐ母親、自分を受け容れるものとしての故郷、というもう一つの故郷像を獲得する。娘達との和解にしても、私はこの結末に不自然さを感じずにはいられなかった。とても唐突に見え説得力に欠けるのと、いくらか都合よくできすぎている感じがぬぐえなかったからだ。母親像や故郷像にしてもそれは男が急に思い出したものであり、男自身も語っているとおり確証の持てるものではないと判断できる。

しかしそれでもいいのではないか。自身の記憶を偽ってでも幸福で愛されていた自分というイメージを得たいという思いにすがるのは、厳格な見方をするのであればずるいとも言えるのかもしれないが、責めるべきものではないと思いたい。だから、都合の良さと同時に、人間の存在に温かい眼差しをできるだけ注ぎたいと思わされ、両者が交互に行き交う読後感だった。
過去の論文を読んで思ったが、贖罪のみに潔癖なまでに徹するべきだといい、少しでも甘えを見せれば冷たくはねのけるというのは、それを無関係な他者が言う時にはひどく無責任なものになると私は思う。

卒論を書くとその人のこだわりが出ると先生に言われ、できるだけ投影などせずに恣意的になるのも避けようと思って進めているけど、やっぱり何かは出るなと。

最近の漫画

2004年10月25日 読書
羽生生純『恋の門』(映画の予習で1〜4巻)
しりあがり寿『弥次喜多 in DEEP』(中途半端に2〜6巻)
岡田あーみん『ルナティック雑技団』(懐かしくなって1〜3巻)
    
どれも違った意味で異次元。
しりあがり寿は本当に凄いなあ…二次元の媒体で表現されているとは到底思えない。

『恋の門』は映画を見に行こう行こうと思いながらも、ついつい先延ばししている。明日が終われば多少はやる事も減るのでそれからにしようと思う。松田龍平があの役をやるとは…怖いもの見たさの感が若干。
こうやって先延ばしする癖があいかわらずある。中学生の頃も、夏休みの宿題に取り掛かる事自体は早かったのだけど、数日たつと気が抜けて途中何もしない日が続き、結局最終日まで残っていたという有様だったし。
結局明日までの課題を放っておいたらまんまと熱を出してしまった。

学園祭が近く、今年もサークルで出店予定。学生でも何でもない自分の彼氏のバンドをステージに出してあげる事をほぼ独断で決めてしまった子にそれとなく反対の意を表しておいたが、結局実行委員会から許可が下りずほっとする。去年もこんな事があり嫌だったのだが、それとなくではなくはっきり反対できないのが自分のこずるい所であり。その人は好きか嫌いかの二択しかなければまあ悪い人ではないので嫌いではないが、とりたてて好きでもなく、でもそういう人にさえ嫌われるのを避けたいんだから。というか、私のような人間がいた事がそういう人の記憶や印象に残ってほしくないのかもしれない。
忙しくて頑張ってる事を常に口にし、或いはそういう自分に依拠しているんじゃないか、もし学祭の手続きを先回りして全部やってしまったらどうなるんだろう、などと性悪な事を考えてみる。なんか、周囲の誰よりも一番頑張っている人だと認めてほしいらしい。話していても自分の話をしようとし、精神的に優位に立とうとする。そんな風に見える。

ともあれ今の所は、二年生で黙々と仕事をこなしつつ先の事まで考えている子がいて仕事の比重が偏っているので、昼ご飯を食べつつ話し合いをした。別に誰が優れているなどと相対的に比較できるものではないし個人的な好き嫌いにすぎないけど、私は同じ頑張っている人でもこういう子と話していると充実した気分になれる。自分を冷静に振り返るきっかけにもなるし、腹を立てず無理もせずにいられる。今回はそれぞれ協力して、互いのフォローをしつつ頑張りたい。一年生と連帯感を作る機会でもあると思うし。

ふと振り返ってみると、漫画と何の関係もないなこれ。それどころか半ば愚痴だな。

幼年

2004年4月10日 読書
最近は福永武彦が好きで、全集をちまちま読んでいる。印象に残ったのが「幼年」で、子供の頃の感覚についての「就眠儀式」「夢の中の見知らぬ人」などと題された数ページずつの文章から成る作品だが(これも小説というんでしょうか)、それは思い出話のように過去を現在の世界に手繰り寄せ、回想として語られるのとは感触が違う。
空想や夢を、言葉によって明瞭に説明しすぎるのでもなく、浮かんだ端から消えるか消えないかのところ、意識がはっきりと捉えられるか捉えられないかのところをそのまま保って絶妙に書かれているように思える。「かすかな風の息吹のようなものが、私を吹きつけて過ぎて行く」ように時間軸の後方へ消え去るままに、不可逆的なものとして語られる。それはまるで過去を再び生きているような感じがあって不思議な印象を残す。

過去に読んだ「夢見る少年の昼と夜」も面白かった。「退屈な少年」という作品もあるが、子供に特有の観念や空想の世界とか、子供の中だけで通用する決まりごとみたいなものを描くのが上手いなあと思う。
どうしても観念的な作風の作家というふうに見てしまうせいもあるのか、私には愛を主題にした作品が最終的には自己陶酔的な面を含むように思えて、どこかなじまないというか完全にはのめり込めない(面白く読みはするものの)のだけど、全体的には心に静かに語りかける作品が多くて非常に好きな作家の一人です。この繊細さは現代にマッチしない部分もある気はしつつも。これからまたぼちぼち読んでいこうかなと。
あまり次々絶版にされると切ない。今でも広く読まれそうな作品もあるのに。
▼『素晴らしい世界』(1)浅野いにお(小学館、2003年)
ずしっと響く物語を想像してたんだが、あれ、意外とライトなのね…。もっとぐさっと刺してもらってもこっちはOKなのだが。
短編を九作収録。登場人物の誰もが何かを抱えていて、まだやり直しの出来る地点にいて、その糸口を掴もうともがいている。今時の若者の雰囲気がそっくりそのまま紙面に持ち越されていて、その点が上手いとは感じる。そして、自分はなかなかそちら側にはなれそうにないとも。若くないんですかね私は。
どこかで「痛い青春系なら浅野いにおか福満しげゆきがお勧め」と書かれていたのには首をかしげた。教室に両者がいたら恐らく別行動でしょう。こっちは割とからっとしてて弾けているので。表層的とすら思うほど。

▼『sink』(1)いがらしみきお(竹書房、2002)
何でもない日々に起こる奇妙な変化の数々。じわじわ襲いくる不安を回避できない人々。道には煙草の吸殻が増え、おびただしい数のタイヤが壁に埋め込まれ、自宅の押入れには知らない内に土が詰められている。
何が恐ろしいってそれらの意図の見えなさが。恐怖といっても直接危害を加えてくるわけでも血や悲鳴などのわかりやすい形を取るわけでもない分、不可解さが加わる。だんだん日常がほころびていく姿が気持ち悪い。

▼『自虐の詩』(上・下)業田良家(竹書房、1996年)
世間の「泣けた」という評判に乗れない場合が多いのだが、今回はやられましたね…。特に下巻が。貧乏や周囲への引け目などをことさらに訴えるわけでもなく、淡々と受け入れている感がある。少女時代の回想部分のエピソードが具体的に描かれていて、地味ではあるがその方が伝わってくるものがある。
夫婦関係を描いた部分よりも、回想部分のたった一人との友情とその後の再会、母親に宛てた手紙の内容に泣けた。

▼『この世の終りへの旅』西岡兄妹(青林工藝舎、2003年)
好きですねー西岡兄妹。日常の生活からいつの間にか非日常的な旅へ踏み込んでしまった男の話。夢を見る感覚に近い。色んな解釈を誘う作風ではあるが、それよりもこの世界をただ体感するつもりで読みたい。画面に精密に書き込まれた模様に引きずり込まれる。
起こっている状況はシリアスなものであるのに、どこか実感を伴わず一枚隔てて全てを見ている感じに覆われている。短編集『心の悲しみ』内の「こことは違うどこか遠くの場所でぼくの心が悲しんでいる」という台詞に象徴される感覚であり、それが魅力だとも思う。
彼らの作品は音楽に似ていると思う。同じフレーズが延々ループする中で漂っている白昼夢のような、心地良いけどやがて不安になるような音楽。

▼『少年少女』(1)福島聡(エンターブレイン、2002年)
無理矢理盛り上げようとしなくても、日常のちょっとしたひとコマが切り取りようによっては十分ドラマになり得ると思わせる作品集。人物のやり取りを自然に静かに描く。台詞に表れない部分を味わいたい。「自動車、天空に。」が良かった。

▼『まだ旅立ってもいないのに』福満しげゆき(青林工藝舎、2003年)
迷っていたところをフリスクさんの日記に後押しされる形で購入。冴えない日々を悶々としながら過ごす主人公の話が多い。ひっそりと目立たない場所で生きている人間の心情を的確に描いている。
もやもやの解消方法を探す事もすっぱりと悩みを切り捨てて前に向かう事もできず、ただぐるぐると同じ地点で悩んでうなだれている煮え切らなさが特徴で、そこに親近感を覚えてしまったんですが、それってどうなんだ私、という気も。

▼『赤い文化住宅の初子』松田洋子(大田出版、2003年)
どちらかというと併録の「PAINT IT BLUE」が良かった。下請け工場の18歳の少年と周囲の大人達の自虐的で殺伐とした日々を描く。生命力に満ちた負のパワー、というとおかしいが、半ばヤケクソの必死さに圧倒されるものがある。多分こんな感じなんだろうな…と。表情の描き方や人物描写がリアルで、特に嫌な部分やねちっこさを描くのが上手くて引き込まれる。
表題作を含む六つの物語を収めた短編集。ネタバレかも
「水の面」。人身事故による電車の遅れを告げるアナウンスを聞きながら「私」はふと父の事を回想する。父は一週間前に同じように電車に轢かれて亡くなったばかりである。「誤まって線路に落ちたところに列車が入って来たそう」だと説明されている。定年退職と同時に発覚した癌の手術が成功し退院した矢先の出来事であった。

そこから時間を父のいる頃まで巻き戻し、両親と「私」の弟との四人家族家族の風景を「私」の語りによって淡々と追っていく。しかしその語りのあまりの静かさには何かがそっと抑制された、というよりは何かが物語内の日常の外に抜け落ちてしまっているような感じが終始漂う。父の癌が発覚した時にも、

「私はもし自分に家庭があり、その中で自分が重病にかかったら、家族に対してどんな態度をとるのかと想像した。が、これは大変難しい試みで、すぐに疲れ果てて諦めた。
 前立腺癌という父の病名から、想像を変形させようというのがそもそも無理なのか、まず、自分がどのような病気になるのか、その設定ができない。次に、夫の顔も子供たちの顔も、一度に並べて見ようとしたが、こちらもさらに難しかった。ただ、かろうじて、私は彼等にできるだけ迷惑をかけないよう努力するだろう、とそれぐらいのことは考えた。しかし、あくまでも健康な人間の思いつきに過ぎない。」

とそのような想像については詳細に述べてあるのに、肝心の父について「私」が例えば驚きや心配など何を感じたのかが、或いは特別関心を持っていないのかなどの説明が全く描かれていないのが不思議な印象を与える。それはまるで「私」がもう一人語り手として存在し離れた場所から「私」達家族に起こった事を眺めているかのように感じられる。
家族はさりげない会話によりゆったりとつながっているようである。ただ時々そのような描写が何か危うい裂け目のようなものを私に感じさせたのだ。

父の術後は順調だった。そんなある夜中に「私」は父の低い呻き声を耳にして目を覚ます。洗面所から聞こえてくるらしく、それは何夜も重なる事になる。痛みをこらえているようでもあるが正確な事は本人に尋ねない。そして朝が来れば何事もなかったかのように父は穏やかな表情を見せるのだ。
独立している弟が見舞いに来、昼寝をしている父をあとの三人は気にかける様子を見せながら言葉を交わす。ベッドで寝ていた父は食卓に出てこられるようになり、外に出かけられるまでに回復する。
そのような昼間の様子には微笑が似合うような心地良い温度を感じる。それだけに断続的に続く夜中の呻き声は、穏やかで何て事のない日々の裏側に誘い込む暗い穴がぽっかりあいたような、そんな奇妙な謎を思わせるのだ。皆が生活を営む時間と夜中とが一続きではなく、完全に分断されたような感じがある。

結局その呻き声の意味を「私」が確かめる事もなく、家族四人の集まる日常風景にも不自然なひずみも微塵も見せないまま事故が起こり家族がそれを知らされ(つまり冒頭部分に戻り)、特に何の感情も示されずに物語はそっと仕舞われる。死という事実に関わる割には味気ないほどに。
父は謎を残したまま(しかし物語中では謎だとすら特に意識されてはいない)死んだが、それよりも先に述べた「何かが抜け落ちている感じ」が、これは表題作以外にも通じる事なのだが、著者の簡潔な文体に対して感じられて、その抜け落ちたものが物語からは察知できない暗部を大きく作っているように思えた。丁寧な描写とは裏腹に現実味をどこか欠いたような、まるで離人感に似た、現実世界と人物との有機的つながりの希薄さを感じさせる。
日常の表面をするすると滑っていくようでいて不安定さに踏み込む寸前の危うさも予期させる作品。

久々に本読んで文章書いたから疲れた…。長くなっちゃったし。感じた事が上手く文章になってるか自信ない。あーすっきりとわかりやすく、しかもちょっと軽妙な感じで書けないものか。しかしだらだら書くのが得意な自分には…。
もうちっと、ポイント抑えてメリハリつける事を目標に。

久々に本の話

2003年8月13日 読書
・宮沢章夫『よくわからないねじ』
一時期、宮沢さんの本を読んでも私の脳がウンともスンとも言わなかったので、どうしたもんかこれはと不安を感じつつ放っておいたのを、今ならいけそうな気がして読んでみる。が、『百年目の青空』の文庫版という事を全く知らずに買い、だぶってしまった。迂闊でした。
前のエッセイ集の方が笑えた気がするのはやはりこちら側の変化のせい?何故だろう、やはり笑わそうとする意図が見えるかどうかをつい探らずにはいられないせいなのか(そう意図して書くのは当然でも、個人的にはそれが読者に見えるものはアウト。本書については微妙な所)。本自体は相変わらず宮沢節炸裂で、どうでも良い事を延々繰り広げてくれてます。このどうでも良さがたまらない。第四章はようやく声を出して笑えた。特に「強そうに見えるかどうか」「その点を反省せよ」辺りがヒット。無数の地蔵…(笑)
これからも平然とした語り口は変わらないで欲しい。

・福永武彦『草の花』
ひところの文学青年にウケそうな要素が満載。新潮文庫版の紹介文を読んでさすがの私もむずがゆーい感じを覚えつつも、それでも惹かれるものを感じるという事が、私に時代錯誤的でひ弱な所があるのを物語っている気がする。
内容に全面的に共感するものでもないけど、あの潔癖さは少しわかるかもしれない。風景や心情の綿密な描写が今の私には凄く落ち着く。結構版を重ねている事に驚いた。読まれてるのねえ…。こういう持ち味の作家だったのか、作品として狙って書いているのか(どちらでもあるのかもしれないけど)。実はあまり何作も読んでいないのでよくわからない。
『飛ぶ男』『夢見る少年の昼と夜』などの短編集は新潮文庫ではもう絶版なんだろうか。あれ好きなんだけどなあ。少なくとも『草の花』よりは時代に関係なく共感を呼ぶものがあると思うんですが。

まだ本格的に読書に復帰できそうもないけど、また色々読んでいきたい。やっぱり文字の羅列として漠然と読んでしまう瞬間がまだ多くて、「おっといかんいかん」と気付いては元に戻ってちゃんと読むという、かなり二度手間な事をしています。

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繭

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