晩年

2006年10月14日 読書
ISBN:4101006016 文庫 太宰治 新潮社 ¥540

「私が三年生になって、春のあるあさ、登校の道すがらに朱で染めた橋のまるい欄干へもたれかかって、私はしばらくぼんやりしていた。橋の下には隅田川に似た広い川がゆるゆると流れていた。全くぼんやりしている経験など、それまでの私にはなかったのである。うしろで誰かが見ているような気がして、私はいつでも何かの態度をつくっていたのである。私のいちいちこまかいしぐさにも、彼は当惑して掌を眺めた、彼は耳の裏を掻きながら呟いた、などと傍から傍から説明句をつけていたのであるから、私にとって、ふと、とか、われしらず、とかいう動作はあり得なかったのである。橋の上での放心から覚めたのち、私は寂しさにわくわくした。そんな気持のときには、私もまた、自分の来しかた行末を考えた。橋をかたかた渡りながら、いろんな事を思い出し、また夢想した。そして、おしまいに溜め息ついてこう考えた。えらくなれるかしら。その前後から、私はこころのあせりをはじめていたのである。私は、すべてに就いて満足し切れなかったから、いつも空虚なあがきをしていた。私には十重二十重の仮面がへばりついていたので、どれがどんなに悲しいのか、見極めをつけることができなかったのである。」(「思い出」)

 「青年たちはいつでも本気に議論をしない。お互いに相手の神経へふれまいと最大限度の注意をしつつ、おのれの神経をも大切にかばっている。むだな侮りを受けたくないのである。しかも、ひとたび傷つけば、相手を殺すかおのれが死ぬるか、きっとそこまで思いつめる。だから、あらそいをいやがるのだ。彼等は、よい加減なごまかしの言葉を数多く知っている。否という一言をさえ、十色くらいにはなんなく使いわけて見せるだろう。議論をはじめる先から、もう妥協の瞳を交しているのだ。そしておしまいに笑って握手しながら、腹のなかでお互いがともにともにこう呟く。低脳め!」
 「(…)彼等は、よく笑う。なんでもないことにでも大声たてて笑いこける。笑顔をつくることは、青年たちにとって、息を吐き出すのと同じくらい容易である。いつの頃からそんな習性がつき始めたのであろう。笑わなければ損をする。笑うべきどんな些細な対象をも見落すな。ああ、これこそ貪婪な美食主義のはかない片鱗ではなかろうか。けれども悲しいことには、彼等は腹の底から笑えない。笑いくずれながらも、おのれの姿勢を気にしている。」(「道化の華」)


これらの部分にギクッとさせられはしたけれど、もはや高校生ではなく過剰な自意識からもいくらかは脱したつもりの私は、「道化の華」の太宰の身代わりである大庭葉蔵へ友人の小菅の向ける「観賞」の目線に自分のそれが自然と溶け込めているという変化に今回気付いたのだけど、同時に半分自分を欺いている感じにどうもそわそわする。実際にはよく似た芽を水面下で保ちつつ素知らぬ顔で隠しては、高みの見物の人々にまぎれようとするような、罪深くて悪辣な感じがして。というかこの文章に接して、以前なら「十重二十重の仮面」や「腹の底から笑えない」やらを部分的に引用して自分の文脈の中に勝手に貼り付けて陶酔するやり方を悪びれず行っていたのが、今引っかかったのは自分の動作に自分で注釈をつけたりポーズを気にしたりと、客観的視線が頭の中を常にちらついている部分だったのですが。あ、どっちも結局は同じですか。

って、別に何のオチもなく新解釈に挑むわけでもなく、個人的な後ろめたさをいつものように繰り返すだけの文章になってしまった。だいたいギクッとした「気のする」少年少女なんか掃いて捨てるほどいるのだろうよ。それにしても太宰治は異形の人だなあという思いは強まった。終わりない自己言及の連鎖地獄。印象に残った読書を挙げる時に、太宰治の名前をいっさいの照れや気負いもなく、つまり他の作家の名前を差し出す時と同じような何気ない感じで、その何気なさも意識しないでいい境地に、そのうち達する日もくるのだろうかと思う。

さてご飯を作りにかかります。私にはやっぱり生活の場を選ぶ方が座りがいい。

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繭

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