脳内BGMは筋少の「蜘蛛の糸」
2006年6月5日 煮え切らずLast.fmの写真差し替えてみたりネットめぐりしたりする。活字に真剣に向かい合おうとしても次の瞬間には自分の内側に目が向かっていたりして、何にも没頭することができない気分。そんな中でプラの千葉組二人が雑誌の企画でデスノートコスしたとかいう写真を結構しつこく探す(太朗Lのみちっちゃい写真で発見。しかしどんな企画だ…)。
それから仕事。帰りに鳴子集団を再び目撃。
なんだか数日前から気持ちが下降線をとぼとぼと辿りだす。こういう気持ちを背負うことが生きていく上である意味張り合いになると言えなくもないけど、それはあくまでこの体と心を引き受けるしかない私がせめて捻り出した辻褄合わせでしかないような。
じめじめした憂鬱も情けないまでの劣等感も過剰な自省も知ることのない、心根がまっすぐでぴかぴかと屈託なく生きる生(せい)を保障されていたなら、たとえ今よりもその分単調で表層的になってしまっても私はそちらを望むだろうと思う。その私は漠然とした物足りなさを時々口にしたくなるかもしれないが、そういうつぶやきも日常の健全な穏やかさの中ではいつか溶かされていく。今の私の持つマイナス側面を、いくら何らかの糧になると言われたとして、その私はすすんで背負おうとするだろうか?
前向きな言葉や自身を奮い立たせようとする言葉が、捻り出したはしから口実めいたニュアンスを帯びてしまう。
せめてエネルギーがプラスされたら、今の自分を積極的に肯定することもできるだろうに。頭ごなしの自己否定の波はもう過ぎ去ったものの、肯定となるとまだほど遠いな。否定と肯定のあいだでうろうろおたおたしている。
違う生を生きる私なんていうロマンティックで逃避的な仮定は、文学にはありえても現実にはやはりありえない(というか逆だな。現実にありえないから…と考えたほうがいいか。「違う私」というのは受け取り方が複数ありそうなので、ここでは「現在の私をリセットした上での」という意味で)。だから上のようなごちゃごちゃは投げ出して軽やかに生きたいです。こうやって書き残す(というか書き捨てる)ことで、当分は自分を維持していくのかな
++++++++++
という昨日携帯メモに残した内容に、色々付け足しながら書いてみる。彼がこっちを見ていると(画面を見ていなくても)書けなかったので、向こうを向いてもらう。今日は昨日よりも悪い。世の中のネガティブな情報ばかり敏感に拾ってしまう。
それから仕事。帰りに鳴子集団を再び目撃。
なんだか数日前から気持ちが下降線をとぼとぼと辿りだす。こういう気持ちを背負うことが生きていく上である意味張り合いになると言えなくもないけど、それはあくまでこの体と心を引き受けるしかない私がせめて捻り出した辻褄合わせでしかないような。
じめじめした憂鬱も情けないまでの劣等感も過剰な自省も知ることのない、心根がまっすぐでぴかぴかと屈託なく生きる生(せい)を保障されていたなら、たとえ今よりもその分単調で表層的になってしまっても私はそちらを望むだろうと思う。その私は漠然とした物足りなさを時々口にしたくなるかもしれないが、そういうつぶやきも日常の健全な穏やかさの中ではいつか溶かされていく。今の私の持つマイナス側面を、いくら何らかの糧になると言われたとして、その私はすすんで背負おうとするだろうか?
前向きな言葉や自身を奮い立たせようとする言葉が、捻り出したはしから口実めいたニュアンスを帯びてしまう。
せめてエネルギーがプラスされたら、今の自分を積極的に肯定することもできるだろうに。頭ごなしの自己否定の波はもう過ぎ去ったものの、肯定となるとまだほど遠いな。否定と肯定のあいだでうろうろおたおたしている。
違う生を生きる私なんていうロマンティックで逃避的な仮定は、文学にはありえても現実にはやはりありえない(というか逆だな。現実にありえないから…と考えたほうがいいか。「違う私」というのは受け取り方が複数ありそうなので、ここでは「現在の私をリセットした上での」という意味で)。だから上のようなごちゃごちゃは投げ出して軽やかに生きたいです。こうやって書き残す(というか書き捨てる)ことで、当分は自分を維持していくのかな
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という昨日携帯メモに残した内容に、色々付け足しながら書いてみる。彼がこっちを見ていると(画面を見ていなくても)書けなかったので、向こうを向いてもらう。今日は昨日よりも悪い。世の中のネガティブな情報ばかり敏感に拾ってしまう。
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