いわゆる「社会的弱者」、マイノリティをめぐる問題について、主に障害者、部落問題、言葉狩りの問題が語られている。言葉狩りも興味深いけど、特に障害者についての第1章は熱心に読んでしまった。最初の数十ページがどことなく乱暴に見え、大丈夫だろうかと余計な疑念を抱きもしたし多少「?」な表現もあったものの、障害者を扱った番組や物語の結末が感動的であたたかくまとめあげられる傾向や、「障害は個性」という言い回しへ感じる違和感についてどう考えればいいのか、という疑問を考えるための材料となるような鋭い指摘に、なるほどとうなずく箇所が多くあった。

「感動」を前面に打ち出したものが受ける事に違和感を覚えているのは、結局はそういう話の受け手は問題に真正面から向き合おうとしているわけはなく、あくまで自分のために消費しているだけではないか、と私はそんなうがった見方をしているせいだ。いい話を見聞きして、世の中こういう人もいるんだと自分の中のポジティブな部分を引き出そうとする心の動きは私にもあるのだから、自分の事を棚に上げるようで気が引けるけど。
「障害は個性」について、「この場合の『個性という言葉の使い方には、(略)その人のすぐれた持ち味とか美点といったニュアンスがことさらこめられている。しかし、障害は勝ち取られた特性でもなければ、持って生まれた美点でもないから、そういう意味では『個性』などとは言えない。(略)それを過剰に重苦しく考えていても生き抜く力は生まれてこないが、逆に。ことさらポジティヴなものと見なそうとしても、不自然さが際立つだけで、本人の不遇感や周囲とのバリアーがたやすく払拭されるわけではない」という部分はすとんと腑に落ちたものの、欠損を「他人の同情を借りる以前に自分の『長所』として現実に生かしうる力を持つ者だけが、それを『長所』と実感できる」のであるという見方はやっぱり厳格に過ぎるかもな…と少し思う。

そのように障害を持つ人など「社会的弱者」を眼前にした時のこちら側の過剰なこわばりや複雑な心理、または「弱者」に括られる側の人達の心理に焦点を当て、共同体の外部あるいは内部から行なわれる「聖化」についてシビアに仔細に検討し筋道立てて論じ、弱者とは一体何なのかという問いを突き詰めていく。
小浜氏は単にそうした傾向への糾弾の姿勢をとっているわけではない。「足を踏んだ者には、踏まれた者の痛みはわからない」という言葉を引き、「被差別者でなければ差別者の側に括られるといった単純二分法」に疑問を呈した部分にははっとした。「自分がそのことを問題にしようとする必然性はどこにあるかということを、自らの経験と感覚のなかに問い尋ね」、「その人が具体的にどのような形で『弱者』性を内在させているか」を見つめる事が、差別者/被差別者という二項対立から抜け出し、「障害者」という括りとして接するのではなく個人と個人が向き合うために必要であると説かれている。ってそう書くととても当然の結論に落ち着いたように思えてしまうけど。差別でも称揚でもない、両者のせめぎ合いを自分の中に同時に持っておけるバランス感覚の難しさと重要さを再認識した。

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ところで私的な話ですが、障害者と関わる場にいる事によって、その人やその周囲の人達との良い関係を築くにはどうしていけばいいのか、そもそも良い関係を心底から築きたいと思っているのか、などの執着が私にはある。その執着を解消する事を求めているのだけど、厳しく探求し自分や相手の欺瞞を暴く事がいい事なのだろうか?かえって衝突したり他の介護者などから白い目で見られたりしないか?などと思うとなあなあにしとく必要性もたまにはあるのかもなあなんて思いもする。
「『障害』者」とか「障碍者」とかという言い回しも何となく好かないんだけど、何故私はそれを好かないのか、何故あなたはそういう言葉を使うのか、という事を厳密さを求めて周りに尋ねまくっていたら煙たがられそうだ。私がそんな風にしたがるのは、障害を持つ人達と共に生きるためのよりよいやり方を実際の関わりを通して磨くよりは、机の上で考える事の対象として見ている側面の方がやや強いからなのだと思う。
それを思うと、何だかなあ…あんまり良くないよなあ私…と思ってしまうわけですが…。

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繭

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