偏り

2004年11月20日 煮え切らず
あらゆる事をうまく受け流せない自分の不器用さを魂が高潔である証拠のように周囲にアピールしてみせる、無神経な世間のしわ寄せをひたすら食らっているかのような顔をする、自分は被害者であり、それでも一人けなげに耐えているのだという顔を。
私にしても、感傷に溺れてよい年はもうとっくに過ぎただろう。
寧ろ自分に酔わない人、孤高の人に清らかさと憧れを感じる。自分はそうなれそうにないために。せいぜい他人にそういったアピールをしたり、感受性が鋭いんだと居直ったりして心のバランスをとる事はできるだけ避けたいと思ってみる。
安易な自己肯定は敵だという思いが底の方に残っていて、それで良いと思う反面何か大事な事の妨げになっているんじゃないかという嫌な予感がうっすらとある。

要は「自分だけが生きづらい振りをするなんてずるいぞ」という羨望と、
相手の中に自分と似通う汚点を見出し、それを相手が恥ずかしげもなく周囲に美点であるかのように振りまいて見せている事で、こっちまで恥ずかしさや身内意識から来るような後ろめたさを覚えるという心理パターンと。
私が冒頭のように嫌悪感を覚える相手については、幾らかは投影の結果である事は認めなければならない。

他の人の日記や、周囲の色んな人を見ていると色んな事を思う。
何で皆「私はぎりぎりまで我慢して頑張っちゃうから、後で辛くなるんだ」なんて、堂々と言えてしまうのだろうか。という点にいつも引っ掛かりを覚えているようだ。
その事から自分の矮小さを思うが、これは自分の偏りなのだから、良い悪いではなくそういうものだと考えても良いのかもしれない。
ただそれが上のような「ずるいぞ」云々という思いから来ている事だとか、自分の考えの偏りがどこに由来するのかを掘り下げずにはいられず、またそれが気持ち良いのかもしれなかったり。

「私も所詮同じだ」というのは、先回りしてそう言っておく事で相手からの咎めをあらかじめ回避する防御策でしかない。卑下が美徳だと思っているところが自分にはあって、でもそれは本当なのだろうか。

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繭

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