江分利満氏の優雅な生活/山口瞳
2004年11月14日 読書
写真は「華麗な生活」の方ですが、「優雅な」の方が好きかもしれない。以下長すぎる引用。
江分利は、父と並んで歩きたくないとは思わないのだが、足が萎えてしまったようでふらふらやってくる父と、前のめりで早足になるのが癖の江分利とでは、自然に距離ができてしまう。20メートルか30メートルうしろで、鼻水をたらしながら、総入歯の口をキュッとかみしめながら、おくれまいと必死にがんばっている父を江分利は背中に感ずる。江分利は立ち止まったり、靴紐を直したり、本屋をのぞいたりして距離のちぢまるのを待つ。その待っている間が、江分利の生活のなかで父のことを考える短い時間のようになっているのを感ずる。
いま、父が死んだら、どうだろうか。同じ肉親を喪うにしてもタイミングによってショックがずいぶん違うのではなかろうか。いま父が死んでも、江分利は、父が死んだというよりは、1人の男の一生が終ったという感慨の方が強いだろう。悲しみの内容がちがう。涙の質がちがう。
老年ということがある。そして老醜という言葉がある。「老醜」ということを江分利はむしろ有難いと思うことがある。いつまでも立派でやさしい父母であるならば、その死は江分利のような脆い人間には全く耐えがたい。母の死の打撃については前に書いた。もう一度あのショックを父で味わうのは、全く耐えがたい。父がすこし狂っていて、エゴイストで、急にみみっちくなり、吝嗇漢になったことを、いわば「老醜」のサンプルみたいな人間になったことを、江分利は心のどこかで感謝しているような気配がある。人間というのはなかなかよくできている、と江分利は思う。年老いて、心が汚くなり、心がおとろえ、みにくくなっていくのは、これも自然ではなかろうか。そして、いつかは庄助も江分利に対して老醜を感ずる時期がやってくるのだろう。
父と江分利とではタイプと生きた時代が違うのであって、父は悪い人間ではない。江分利は、この期に及んで、ふたたび父が実業家としてのヤル気を起こされることが怖ろしいだけだ。だから、その考えを押えつけたい一心なのだ。江分利と夏子と庄助には江分利を中心としたひとつの世界がある。これをこわしてもらいたくないのだ。父がふたたび起つことは破滅である。もしかりに、父が奇跡のカムバックに成功して実業界に返り咲くことがあっても、それは江分利と夏子と庄助にとって破滅なのだ。
実業家としての大失敗が一家離散の原因となり、母に死ぬ直前まで心配をかけた父についての複雑な思いが書かれた「いろいろ有難う」や、母の突然の死への後悔と外国人留学生と言葉少なに語り合った夜の事を書いた「おふくろのうた」にはぐっとくるものがあった。江分利氏と同じ実感を得るには明らかに経験の重みも思いの内容も違うから、涙するのは図々しく本当の意味での感動ではないようにも思うものの。
山口氏のこのきびきびした文の運びが気持ちいい。なので長々と引用してしまった。きちっとしながらも時々自ら茶化したり、冷静なようでその隙間から哀愁が強くにじんだりという文体は江分利満という人間そのものなのだと感じる。
ずしっと腹にこたえる渋みがあり、それが良くて再読してしまった。こういう渋みを持った人は私にとって憧れでもある。「優雅」というのはいくらか自嘲混じりかもしれない。社宅暮らしのごく普通のサラリーマンの地味な日常を誇張も何もせずにただ書くだけなのにそれが上手く、なかなかできない事のように思わせられた。やるせない、切ない、哀しい、おかしい、重い、あたたかい、色んな思いが折り重なる。
柳原良平さんの絵もぴったり。携帯にトリスおじさんをぶらさげているので、この点でもかなり愛しい一冊。
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頭はひどく痛く、気持ちは寂しい。やる事が山積みになると逃げ腰になる。
折角の休日なのに頭痛をまぎらわすために横になって過ごした。
寒いのでこたつを出す。
鉄腕ダッシュの動物とのキャッチボールを見ていると少し気分がましになる。
だけど動物っていいなと思うのもどこか現実逃避である気がするな。
江分利は、父と並んで歩きたくないとは思わないのだが、足が萎えてしまったようでふらふらやってくる父と、前のめりで早足になるのが癖の江分利とでは、自然に距離ができてしまう。20メートルか30メートルうしろで、鼻水をたらしながら、総入歯の口をキュッとかみしめながら、おくれまいと必死にがんばっている父を江分利は背中に感ずる。江分利は立ち止まったり、靴紐を直したり、本屋をのぞいたりして距離のちぢまるのを待つ。その待っている間が、江分利の生活のなかで父のことを考える短い時間のようになっているのを感ずる。
いま、父が死んだら、どうだろうか。同じ肉親を喪うにしてもタイミングによってショックがずいぶん違うのではなかろうか。いま父が死んでも、江分利は、父が死んだというよりは、1人の男の一生が終ったという感慨の方が強いだろう。悲しみの内容がちがう。涙の質がちがう。
老年ということがある。そして老醜という言葉がある。「老醜」ということを江分利はむしろ有難いと思うことがある。いつまでも立派でやさしい父母であるならば、その死は江分利のような脆い人間には全く耐えがたい。母の死の打撃については前に書いた。もう一度あのショックを父で味わうのは、全く耐えがたい。父がすこし狂っていて、エゴイストで、急にみみっちくなり、吝嗇漢になったことを、いわば「老醜」のサンプルみたいな人間になったことを、江分利は心のどこかで感謝しているような気配がある。人間というのはなかなかよくできている、と江分利は思う。年老いて、心が汚くなり、心がおとろえ、みにくくなっていくのは、これも自然ではなかろうか。そして、いつかは庄助も江分利に対して老醜を感ずる時期がやってくるのだろう。
父と江分利とではタイプと生きた時代が違うのであって、父は悪い人間ではない。江分利は、この期に及んで、ふたたび父が実業家としてのヤル気を起こされることが怖ろしいだけだ。だから、その考えを押えつけたい一心なのだ。江分利と夏子と庄助には江分利を中心としたひとつの世界がある。これをこわしてもらいたくないのだ。父がふたたび起つことは破滅である。もしかりに、父が奇跡のカムバックに成功して実業界に返り咲くことがあっても、それは江分利と夏子と庄助にとって破滅なのだ。
実業家としての大失敗が一家離散の原因となり、母に死ぬ直前まで心配をかけた父についての複雑な思いが書かれた「いろいろ有難う」や、母の突然の死への後悔と外国人留学生と言葉少なに語り合った夜の事を書いた「おふくろのうた」にはぐっとくるものがあった。江分利氏と同じ実感を得るには明らかに経験の重みも思いの内容も違うから、涙するのは図々しく本当の意味での感動ではないようにも思うものの。
山口氏のこのきびきびした文の運びが気持ちいい。なので長々と引用してしまった。きちっとしながらも時々自ら茶化したり、冷静なようでその隙間から哀愁が強くにじんだりという文体は江分利満という人間そのものなのだと感じる。
ずしっと腹にこたえる渋みがあり、それが良くて再読してしまった。こういう渋みを持った人は私にとって憧れでもある。「優雅」というのはいくらか自嘲混じりかもしれない。社宅暮らしのごく普通のサラリーマンの地味な日常を誇張も何もせずにただ書くだけなのにそれが上手く、なかなかできない事のように思わせられた。やるせない、切ない、哀しい、おかしい、重い、あたたかい、色んな思いが折り重なる。
柳原良平さんの絵もぴったり。携帯にトリスおじさんをぶらさげているので、この点でもかなり愛しい一冊。
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頭はひどく痛く、気持ちは寂しい。やる事が山積みになると逃げ腰になる。
折角の休日なのに頭痛をまぎらわすために横になって過ごした。
寒いのでこたつを出す。
鉄腕ダッシュの動物とのキャッチボールを見ていると少し気分がましになる。
だけど動物っていいなと思うのもどこか現実逃避である気がするな。
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