人と会った時、特に輪から何となく外れてしまう人と会った時に、表面に表れた情報だけで簡単に判断するのではなくこの人のそうした性格を作ったものをも考えたいと思うのは、結局自分がそうして欲しいという思いの表れなのだと思う。
ともかくぱっと見てわかる事から判断せざるを得ないのは仕方ない事なのに、それに少し抵抗を感じている。断罪されるのが怖いのだと思う。失敗とか欠陥とか間違ってるとかそんな烙印をまた押されるのではないかと内心怯えている。
深く知ってもらったところで結果は同じかもしれない。それでも無造作に切り捨てられる事の方が辛い。

正解・不正解、そんなものはないかもしれない。
そして物事を判断する確固たる基準は自分の中にもあるとわかっている。
なのに各場面において自分が思い描く「正解」はその場の空気や相手に激しく左右される。自分自身の答えを疎かにしてまでも、その場にいる人に認定される答えを出さなければという方向に走ってしまう。
そのままではいつか愛想をつかされてしまう事はわかっている。自分の思いを貫き、自分で自分にOKが出せるような境地を目指せばいい。そうやってふらふらして相手の採点に怯えて、いつまでも自分で自分の価値を貶めたままでいるわけにはいかない。
でも、どうしても気になってしかたない。

他人の承認に重きを置いている事から来るのだと思う。そればかりを渇望してそれで全てが解決されると思い込んで、本末転倒になっている。
そんな事を気にしなくてもいいのだと、相変わらず都合のいい言葉を待っているのかもしれない。

そういうものが自分の中に根深くある事をよく意識するここしばらく。
そんな事にあくせくする必要などなく、自分の思いを見てくれて温かく肯定してくれる人はいないだろうかなどと、まだ夢見てんのよねえ。

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繭

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