受け入れられる経験のある人とない人とでは大きな差があるのではないかという事をふと思う。どこにいても最近落ち着かないから、その原因を探るとそこに辿り付いてしまう。都合よくそのせいにしているだけの気もする。
一番自分を悩ませている(勝手に悩んでいる)事は、他人がこちらを見る視線の中には必ずどちらかというと好ましくない感情が込められている気がしてたまらないという事で、そういう視線を感じると萎縮して余計悪循環に陥る。
考えすぎなのはわかっているけど、なので表面上は普通に笑ったりしているけど、でもそれが原因でこちらから心を閉ざしている部分があるんではないかと。その悪い傾向が最近再燃。どうもいつも落ち着かないのはもしかしたら自分のそういう所も原因になっているのではないかと。でもこれをなくすのが私には難しい。

受け入れられる事はそんなにも難しい、少なくとも自分には難しい事なんだろうかと次第に考え出し。「余る」経験ならいくらでもある。肺に泥の塊でも詰まったような重苦しさ息苦しさ、ガチガチの身動きの取れなさ、常に頭に浮かぶのはただ一つの言葉で、全部初めから無かった事にしてくれたらと(まさにタイトルのような事を)虚しく無理な事を真剣に願っていた。何でそうなったのかそれが私である必然性はどこにあるのかと限無く考えた。
そうは言ってももっと他に上手いやり方があった気もするし本当に酷かったのはほんの数年程度の事で、それにいつまでも縛られるとも思わなかったのだが、不本意でもそれをいつまでも引きずる羽目になった。
人のせいにするのはキリがないので、自分の中に原因を探す方が一応は納得する。でも人のせいにしていいのなら思い切りそうしたいなどとも思う。したところでどうなるわけでもないからまた内に向かうのかもしれないが。

こんなのであっても、普段生活していて仮に気にかけてもらえたり何かしらの共感を投げかけてもらえたとしたらこんなにも嬉しい事はないし、少しでも良いので誰かそうして欲しいなあとは時々切実に思うものの、そういうのは自分から言う事ではないし自ら言う事でその価値を下げてしまうというか、ともかく妙で気持ち悪い自己愛の表れでしかなくなるというわけで、それには私自身も我慢ならないというわけで…まあそんな事を考えたりする。
優しくされると嬉しいので、人にも優しくしようとは思う。そういう気持ちはあるけど余裕の全くない時はそれも難しい。

場の雰囲気によってバランスを取る事ばかりを最優先して重要な事をなおざりにしてしまい、それが最近過剰になりすぎている気がしてこんな事をつい思ってしまった。まあただの自意識過剰なんだろうけど。
ネットで日記を書くモチベーションが若干下がっている気がする。上のような事をこの場で書くのがやはりためらわれるせいかもしれない。考えを整理してもうちょっと続けてみるか。
なんて思ってるほど他人はこちらを見てはいないと思うんだけどねえ(苦笑)でもそれもイマイチ私の中では説得力がないし…。

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繭

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