あとで(色んな意味で)後悔しそうな文章
2007年2月24日 諸々の活動学生時代に関わっていた障害者介護グループの消息を久しぶりに彼から聞く。「自分達の世界だけで完結している感じがした」というニュアンスの事を彼は言ったのだけど、私にも思い当たるふしがあった。
大学時代の約二年間、脳性マヒのお年寄りの家に一泊し身の回りの世話をするという活動を行うサークルに参加していた。その人の住む大阪の某市にはその人の名前を冠した「○○グループ」というのが幾つかあってそれらが互いに繋がりあっており、共同でのイベントごとも催されていた。私が関わっていたのは世の中にたくさんある事例のほんの一部分でしかないし、他のケースについてもほとんど体系的に勉強もしていないので、あくまで自分の見聞きしたものに限定して思う事を書きたいと急に思い立った(こんなくどい前置きして、私も結局何かに怯えているのかもしれない)。
私(達)の関わった介護グループの障害者側の主張としては大体が「施設=悪者」の一択だった。周りが付き添えず好きな時に外出できないというような「自由度」を価値判断基準とするなら確かにそうかもしれない(働いていてそれはよく考える)。そういう主張を丸飲みした学生達が(社会人になっても在籍していいのだが構成メンバーの多くが学生だった)「施設は障害者を閉じ込めておく場所だ」といきり立つのにいつも疑問を感じていたし施設の中に入ってみてその疑問は濃くなるばかりだけど、大体障害者の言う事に自分を無反省的に同一化しすぎなんじゃないのと思う。それって施設だけを悪者にして説明のつく問題なのかなと釈然としないし、在宅を過剰に至上視する事がかえって限られた場や関係の中に閉じこもる結果を招かないだろうか、彼ら学生はそんなに若いうちから施設をかたくなに敵対視して一体どうなるんだろう、と思った。
というのも私が関わっていたのは、「住み慣れた環境で」暮らすのは良い事でも「この家族と」暮らすのは良い事じゃないんじゃないかと思わせる高齢の親子で(ただ誰もそんな事は口にしないしそう感じもしない様子だったのだけど――でも腹を割った意見交換なんか思いも寄らない雰囲気だったのでわからない)、ただその人にとって悪いから切り離す、とあっけらかんとは割り切れないものが絡み合っているのが人間関係だから私なんかが安易に断定していい事ではないけど、その家族の特質によっては、人と人が密に関係せざるを得ない場だから例えば互いに共依存状態に陥る可能性がある事もあるし、どういう場で暮らすのがいいのかは(本人の意見は勿論だけど介護者サイドへの負担や周りからの視点も考慮したら)在宅/施設の二項対立の内側だけで悪者探しをするのではなく、やっぱりケースバイケースなのだと思う。
ついていけないなあとうんざりしたのは彼らの間に障害者至上主義な雰囲気が濃く漂っていた事で、人手不足の介護者グループではある一人の学生がほとんどフルタイムで介護を行わざるを得ない状況を強いられていて、ちょっとした搾取じゃないのと腹が立ったんだけど、介護者に人格も都合もないんだよねって雰囲気で(うちは割に穏やかだったけど)それに疲弊していざ辞めるとなれば「私を見殺しにするのか」となじる(介護する側のメンタルヘルスや待遇については、業界内でさえもながく軽視されてきたのだと思う)。介護者の辛さは見ないようにして根本的に解決せず「在宅生活を!」って唱え続けるのはどうか。そういや学生時代のテキストにも「介護者は自分の時間を確保し、適度な運動をして気分転換をはかりましょう」程度の事しか書かれてなくて、なんて時代遅れで馬鹿馬鹿しいと思ったけれど。
時代遅れと言えば他のグループは障害者解放運動に走りぎみで、その活動をする中で生身の障害者を有効なアイコンとして利用しているふしがあり(それに無自覚なのが罪だ)、そういうのにばかり直面してきたせいか何でどこを見渡してもいびつな関わり合いばかりなんだとくたびれる一方で、結局就職を口実にフェイドアウトした。だから離脱した私がとやかく言う筋合いもないんだけど、自分の所属する施設という場が無反省的に悪役化されているのがむかついたのかなー。
大学では今も「障碍者」とわざとらしい書き換えをする先生の教えを鵜呑みにした学生が量産されているのだろうし、上記の件もあるし、もっと柔軟になれよと思うけど。
ちなみにこれは下に書いた「サークルがらみの話」とは違います。
大学時代の約二年間、脳性マヒのお年寄りの家に一泊し身の回りの世話をするという活動を行うサークルに参加していた。その人の住む大阪の某市にはその人の名前を冠した「○○グループ」というのが幾つかあってそれらが互いに繋がりあっており、共同でのイベントごとも催されていた。私が関わっていたのは世の中にたくさんある事例のほんの一部分でしかないし、他のケースについてもほとんど体系的に勉強もしていないので、あくまで自分の見聞きしたものに限定して思う事を書きたいと急に思い立った(こんなくどい前置きして、私も結局何かに怯えているのかもしれない)。
私(達)の関わった介護グループの障害者側の主張としては大体が「施設=悪者」の一択だった。周りが付き添えず好きな時に外出できないというような「自由度」を価値判断基準とするなら確かにそうかもしれない(働いていてそれはよく考える)。そういう主張を丸飲みした学生達が(社会人になっても在籍していいのだが構成メンバーの多くが学生だった)「施設は障害者を閉じ込めておく場所だ」といきり立つのにいつも疑問を感じていたし施設の中に入ってみてその疑問は濃くなるばかりだけど、大体障害者の言う事に自分を無反省的に同一化しすぎなんじゃないのと思う。それって施設だけを悪者にして説明のつく問題なのかなと釈然としないし、在宅を過剰に至上視する事がかえって限られた場や関係の中に閉じこもる結果を招かないだろうか、彼ら学生はそんなに若いうちから施設をかたくなに敵対視して一体どうなるんだろう、と思った。
というのも私が関わっていたのは、「住み慣れた環境で」暮らすのは良い事でも「この家族と」暮らすのは良い事じゃないんじゃないかと思わせる高齢の親子で(ただ誰もそんな事は口にしないしそう感じもしない様子だったのだけど――でも腹を割った意見交換なんか思いも寄らない雰囲気だったのでわからない)、ただその人にとって悪いから切り離す、とあっけらかんとは割り切れないものが絡み合っているのが人間関係だから私なんかが安易に断定していい事ではないけど、その家族の特質によっては、人と人が密に関係せざるを得ない場だから例えば互いに共依存状態に陥る可能性がある事もあるし、どういう場で暮らすのがいいのかは(本人の意見は勿論だけど介護者サイドへの負担や周りからの視点も考慮したら)在宅/施設の二項対立の内側だけで悪者探しをするのではなく、やっぱりケースバイケースなのだと思う。
ついていけないなあとうんざりしたのは彼らの間に障害者至上主義な雰囲気が濃く漂っていた事で、人手不足の介護者グループではある一人の学生がほとんどフルタイムで介護を行わざるを得ない状況を強いられていて、ちょっとした搾取じゃないのと腹が立ったんだけど、介護者に人格も都合もないんだよねって雰囲気で(うちは割に穏やかだったけど)それに疲弊していざ辞めるとなれば「私を見殺しにするのか」となじる(介護する側のメンタルヘルスや待遇については、業界内でさえもながく軽視されてきたのだと思う)。介護者の辛さは見ないようにして根本的に解決せず「在宅生活を!」って唱え続けるのはどうか。そういや学生時代のテキストにも「介護者は自分の時間を確保し、適度な運動をして気分転換をはかりましょう」程度の事しか書かれてなくて、なんて時代遅れで馬鹿馬鹿しいと思ったけれど。
時代遅れと言えば他のグループは障害者解放運動に走りぎみで、その活動をする中で生身の障害者を有効なアイコンとして利用しているふしがあり(それに無自覚なのが罪だ)、そういうのにばかり直面してきたせいか何でどこを見渡してもいびつな関わり合いばかりなんだとくたびれる一方で、結局就職を口実にフェイドアウトした。だから離脱した私がとやかく言う筋合いもないんだけど、自分の所属する施設という場が無反省的に悪役化されているのがむかついたのかなー。
大学では今も「障碍者」とわざとらしい書き換えをする先生の教えを鵜呑みにした学生が量産されているのだろうし、上記の件もあるし、もっと柔軟になれよと思うけど。
ちなみにこれは下に書いた「サークルがらみの話」とは違います。
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