ひかりごけ/武田泰淳
2006年3月17日 読書
ISBN:410109103X 文庫 新潮社 1992/04 ¥420
再読。戦時中に起こった人肉食事件の話を、主人公がある中学校の校長に聞き取るという物語。小説部分と戯曲部分の二部構成というかわった作品である。戯曲には食肉の直接的な描写はなく、暗転でその経過を表している。戯曲は人肉食が行われた「マッカウス洞窟」の場面が第一幕、事件を裁く法廷の場面が第二幕という構成。
ひとまずは人肉食やそれをめぐる罪と罰の問題に目に行きがちではないかと思う。人肉を食した者にのみあらわれるという光の輪が、法定の場の後半に差し掛かるあたりで検事や傍聴人にもあらわれるくだりで、光の輪は罪を犯した船長とまだ犯していない全ての人とを同時に告発しているのであり、その罪とは全ての人間に潜伏する問題であるという主張が暗に提示されているのでは…などと、読んだ当時は考えをめぐらせてみたのですが。
読み返してみると、案外小説/戯曲という構成面に主眼が置かれていたりもするのかも、と後で思った。「私はこの事件を一つの戯曲として表現する苦肉の策を考案いたしました」と記し、全貌の明らかでない事件に想像やフィクションを加え戯曲という形におこしている。再読後は「私」(=武田氏ととっていいのでしょうか?)がこの戯曲部分にほどこした仕掛けの意図を読み取る方へ関心が向いてしまった。例えば、船長と西川という船員とにそれぞれ「読者が想像しうるかぎりの悪相の男」「美少年」と対比させるふうの但し書きを何故わざわざつけたか。また第二幕において「何よりも大切なことは、船長の顔が(略)あの中学校長の顔に酷似していることである」とト書きがあるが、そのように小説部分と戯曲部分には互いのいくつかの要素が意図をもってシンクロするように書かれていること。
一方では「第二幕において、船長は、風貌ことごとく第一幕の船長とは、別物でなければならない」とあり、前者は「野性的な方言」、後者は「理知的な標準語」を話すとある。そこに込められた意味。
ともあれ「見て下さい。よく私を見て下さい」と叫ぶ船長を、処刑される「キリストを取巻く見物人」のように取り囲み、光の輪がひしめき合うラストは正に劇的。
再読。戦時中に起こった人肉食事件の話を、主人公がある中学校の校長に聞き取るという物語。小説部分と戯曲部分の二部構成というかわった作品である。戯曲には食肉の直接的な描写はなく、暗転でその経過を表している。戯曲は人肉食が行われた「マッカウス洞窟」の場面が第一幕、事件を裁く法廷の場面が第二幕という構成。
ひとまずは人肉食やそれをめぐる罪と罰の問題に目に行きがちではないかと思う。人肉を食した者にのみあらわれるという光の輪が、法定の場の後半に差し掛かるあたりで検事や傍聴人にもあらわれるくだりで、光の輪は罪を犯した船長とまだ犯していない全ての人とを同時に告発しているのであり、その罪とは全ての人間に潜伏する問題であるという主張が暗に提示されているのでは…などと、読んだ当時は考えをめぐらせてみたのですが。
読み返してみると、案外小説/戯曲という構成面に主眼が置かれていたりもするのかも、と後で思った。「私はこの事件を一つの戯曲として表現する苦肉の策を考案いたしました」と記し、全貌の明らかでない事件に想像やフィクションを加え戯曲という形におこしている。再読後は「私」(=武田氏ととっていいのでしょうか?)がこの戯曲部分にほどこした仕掛けの意図を読み取る方へ関心が向いてしまった。例えば、船長と西川という船員とにそれぞれ「読者が想像しうるかぎりの悪相の男」「美少年」と対比させるふうの但し書きを何故わざわざつけたか。また第二幕において「何よりも大切なことは、船長の顔が(略)あの中学校長の顔に酷似していることである」とト書きがあるが、そのように小説部分と戯曲部分には互いのいくつかの要素が意図をもってシンクロするように書かれていること。
一方では「第二幕において、船長は、風貌ことごとく第一幕の船長とは、別物でなければならない」とあり、前者は「野性的な方言」、後者は「理知的な標準語」を話すとある。そこに込められた意味。
ともあれ「見て下さい。よく私を見て下さい」と叫ぶ船長を、処刑される「キリストを取巻く見物人」のように取り囲み、光の輪がひしめき合うラストは正に劇的。
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