死を悼む

2005年11月19日
出勤すると、あるターミナル期のお年寄りがなくなっていた。夜勤中になくなったそうだが、その前日の夜勤はちょうど私が担当していたので、もしかしたら私が看取っていたかも…と不思議な感じだった。亡くなる間際になると呼吸は一分間に一回や二回になる事もあると聞いていたのだけど、この方は二十分前には普通に呼吸されていたそうで、それがはたっとやんだそう。

仕事後に職場の人と一緒にお通夜に行かせていただき、顔を見せていただいた。着いたのが21時を過ぎていたのでひっそりとしていた。夜勤担当の先輩は、普段から顔色は青白かったが一目見て亡くなっているのがわかったと言っていたが、なんというかもう動くことがないのが思い知らされるほどの静かな迫力を持つ人工的な白さだった。亡くなった人と対面するのは私には初めてだったので不思議な気持ちで、畏れのようなものに自然と合掌していた。

この方は可愛らしいというより…いかめしいという感じだったし、御家族の厳格な雰囲気にも気後れしていたせいか、感傷や悲しさなどはなくて、かわりに「本当に頑張ったなあ…」とただほっとため息をついた。最後の方は食べ物も入らず、点滴だけで生きていたからだ。死に近い人は自分で自分自身が死んでいく事をわかっていると聞いたけど、この方の中でも闘いがあったのでは?と思わされたのだ。体中の浮腫や壊死に近い状態の足が痛々しかった。だから顔を拝ませてもらって、こうして静かな境地にある事に安心を覚えたのだ。

上に述べたように正直苦手の部類に入る方(方々)だったわけだけど、御家族の徐々に熱心さが私の中にも浸透してきたのか、ケアと呼んでいいと自分で思える接し方ができたのではと思う。心をやたら至上視していたのが、それよりもまず体を丁寧に扱う事、体の感じる快不快をちゃんとコントロールしてあげる事が大切だとケアを通して何度も思い返されたのだった。

どうぞ安らかに。

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繭

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