ISBN:4101385114 文庫 新潮社 1995/10 ¥500

『漂流物』を読み終えて今はこれを読書中。表題作を先に読んで「吃りの父が歌った軍歌」に移ったところ。表題作は二十一歳で自殺した若い叔父の話を中心に、幼少の頃暮らした田舎の家やそこで暮らす肉親の来歴を綴ったもの。
ニーチェやバイオリンに耽る叔父は家の者の間では浮いた存在であったのだけど、その後家を出て東京に行ったもののしばらくして戻ってきた叔父が、以前よりもげっそりと痩せ異様な雰囲気を漂わせ、呆然として日々を送るだけとなってしまう場面がある。周りの者に問いただされても「自分に負けただけや」としか答えずあとは沈黙する。叔父は和辻哲郎の『ニイチェ研究』の余白にニーチェの著作から抜き出した色々の言葉を書き残していたのだが、その一つを「私」は挙げる。
「『俺は自分を軽蔑できない人々の中に隠れて生きている。』(略)併しそれは取りも直さず宏之が私(ひそ)かに自分を尊敬していたということでもある。桶に白い生卵を沈めてじっと見詰めていたあの息づかいは何だったのか。勉強が思うように進まなくなったことに加えて、さらにそれに追い討ちを掛ける形で、自分を尊敬できなくなるような何かが東京であったのではないか。コップの水で執拗に遊んでいた宏之は(略)自分を軽蔑せざるを得ない何かを心に抱え、その苦痛にうめいている人であった。」
このくだりが印象に残っている。引用の冒頭部分は、自分は自分自身を軽蔑する事を知っているという自意識が自尊心として働いている事を指しているのだと思うけど、そうではなく決定的に自身を軽蔑するとは、そういう自衛が剥がれざるを得ない境地に追い込まれるとはどういう事なんだろうと思わされた。

引用やあらすじばかり長くなってしまったけど、叔父の死がメインテーマだという感じでもなく、叔父以外の人々についてもほとんど同じだけの執着心を持って書かれている。「私」の語り(「暴く」という言い方をされているが本当にそんな容赦のなさがある)からは、「私」や叔父を含む一族に関して、そもそも「語る」という事そのものに関して、業とか修羅とかいう言葉が連想された。
金貸しの祖母や曽祖父の間で明らかに異質であった叔父に対して、「私」は皆と同じ様に異質な者として扱う事も何らかの似通う性質を持つ者としてシンパシーをこめる事もしない、奇妙な無関係さの中に自身を置いているのが語りから感じられた。「私」にここまで語らせる事が、それだけの違和感を「私」もまた感じている事を意味しているのかもしれないが。といってまったく無関心なわけでもなく、自身を業の深い者のうちに含める事を回避しているわけでもない。上手く言えないが。そこが面白く思えた。

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繭

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