研修休みを使って帰省中。ひとつにはおばあさんに会うためだったのだけど、「もう別にええんちゃう」と言われてしまう。
じゃあ何で帰ってきたのさ私…。
胃漏をして、でも口から食べる事にこだわるおばさんはそうしていたのだけど、医者によると食道が用をなしておらず気管の方に流れこんでいたという…。施設は姥捨て山と言うし(私には言わないだろうが…)理念ががちがちに凝り固まって、自分の満足感のために介護する傾向が極端になっている気がする。

親戚の子がローカルCMに出ると聞いて驚く。オーディション受けてたらしい。なんか凄いなあ…。

仕事の話を色々と訊かれるのに答える。私はちゃんと納得して決めたつもりだけど、
「でも大手メーカーに勤める方がやっぱりええよね♪」
と、いくらかの同意を示している合間にそういう事を未だに言われると、当然ムカッとするわけで、でも「そんな事言うなら今から京都帰ろうかな」「いいじゃん、ニートにもならずよく頑張ってる娘だこと」だとか軽口を叩いて受け流している。

夕食の買い物に付合う帰りに町を眺めると、皆それぞれ生活を営んでいるんだろうなと当たり前の事に何となく打たれたりする。地元に帰って思うのは必ずその事だ。
何かない限りはここに私が戻る事はまずないだろう。もうここに自分に必要なものがないという事は決してない、ただ欲しいものはないかもしれない。欲しいものは必要であり持たねばならないものでもあるから、微妙な言い方だとは思うけど。

町並みには数年前とほとんど変化はない。地元が発展する可能性はゼロだろうし、母はそれが嫌で京都に来たがっている。私は私で、閉鎖的な土地に皆辟易しつつも細々と暮らしているんだろうと一方的に思い込み、そういう場所に両親二人が取り残されていくというイメージが結構根深く染み付いている、という事にたびたび気付かされる。
そんなわけで、せめて私の人生何だったのかしらと完全には思わせないだけの振る舞いをしなくてはならないかもと思い立ったりする。薄情な言い方だが私が、特に母に対してあたたかい感謝や思いやりを注げるようになれる日はもしかしたら来ないかもしれない。せめて娘はちゃんとやってますよと安心してもらう(実際踏み外してはないはずだけど…エリートではないけどね)ように近況を伝える。余計な言葉を投げつけるのもお互いのためにならないしと思うようにしている。何か親に対して屈託があろうとそれは時間がかかっても自力で解決していかなくては、それが子供の義務なのかもしれない…などと、感傷的になるのではなく(いやどうかな)考えつつある。

なんて調子ぶっこいた不遜な事を、余裕のある時だから思えるのだ…

人や物事全般に関し、私は離れないと穏やかな気持ちを持てないのではとほぼ確信し、そしてその穏やかさは結構虫のいい偽物だったりする。この土地にいる人で、正直好きな同級生や大人はいない。そんな自分の過去の時間の過ごし方が虚しく思える。
だから今後の人生(大げさだろうか)での大きなテーマはそれだなと思う。頼むよ自分

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繭

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