今日はおごりだ、という事でしゃぶしゃぶを食べに行った。来月は3倍返ししてもらおうとか妙な事は言わないので、美味しいものでも食べに行けたら…。
ところで、食べながら互いのお婆さんや親戚の話をした。若くて元気なのに末期がんが発覚した彼のお婆さんに、周りがとてもよくしてくれるという話は訊いていた。もちろん健康な頃から円満にやっていた。今は状態が良い方に向かっているという事だが、お婆ちゃん子の彼がいつかごっそり落ち込むんじゃないかと心配している…そこでもし両者のお婆さんを取り替えても同じあたたかい関係がありえただろうかと、愚問だとは十分わかりつつも訊いてみてしまったのだ。要介護状態かどうかはあまり問題にならないのに、自分が思いやりを持てない理由として摩り替えてしまっていたわけだ…

重度の痴呆持ちの父方のお婆さんは93歳で、私が物心ついた頃には耳が遠く軽い痴呆が始まっていた。耳が遠いのをいい事に周囲が色んな事をお婆さんの面前でやや侮蔑まじりに話す、そんな光景が思い出せる中で最も古い記憶だ。十二月に骨折して入院中だが寝たきりになるかはわからない。だけど先日ついに胃にチューブを通して食事する事となってしまった
敬老の日に誰からもお祝いがなかったという事実にはさすがに驚き、私がお婆さんの好きなチョコレートを贈ったのもいくらか慣習的な側面が強かったのに、そのせいでおばあさんを世話するおばさんから過大評価さればつの悪い思いを抱いたのだけど、父方の親戚は数が多くおばあさんにもっと身近な人はいるはずなのに、とこれは今でも腑に落ちない。

考えてみるとおばあさん自身は性格的に何も悪いところはない。なのにその周囲の作り出す磁場みたいなものに飲まれている自分がいる。その中で、上で触れたおばさんがやや我が強く難しい人で、決して悪い人でない事は断言できるものの、そねみやプライドや世間体や打算めいた感情がややこしく交錯する元にもなっているのでは、と勝手に理解している。我が家も家族ぐるみで会いに行く事は少なかった。大事にされてないわけでは決してないが、人が多い分難しさも増えるのかもしれない。おばあさん=親戚同士の緊張をはらんだ関係、という連想が真っ先に浮かび、賭け値なしに思いやる事はできない自分がいて、それについて後ろめたさや自分への疑念などを感じる。

喪服を用意しておいた方がいいという母の言葉で、足腰は元気だったお婆さんもそういう状況に入ってしまったのか、と思う。縁起でもない、いつまでも元気で長生きする事を願うべきじゃないのかと薄情さを責められるとしたら反論はできない。私もそうあるべきだと思う。ただそれは確かにきれいな思いであるが、親戚の人間関係や私の心は正論どおりに動くことはなかなか無かったように見える。

しかし上のように、親族は思いやるべきという強迫観念的な思いがありつつ、なおもそれへの言い訳を探してしまう、というより何を言っても言い訳にしかならないという思いが一方には消しがたく存在している。「近しい人でしょ?」「でもほとんど想い出がないのに」という両者がいたちごっこのように心の中に存在している。
要はそういう自分のずるさだ。他の人にもできる程度のゆるい優しさで接する事はできてもそれ以上の、理屈抜きの特別で強い思いが湧かない事に関してはどうにもできそうにないと感じ、それをもっともらしく理由付けようとする心の動きの中で、私は後ろめたさを覚えながらも最終的にはあわよくば免罪されればと底の方で思っている…
本当にごめんなさい

自分は冷淡か?いやそうであってほしくない、と絶えず悩みつつも、やっぱり冷たいというか利己的で防衛的じゃないか。
今は何も思わなくても、亡くなった後に何か引きずるような気がする。三月中には顔を見せに行く。
損得抜きで人を慈しむとはどういう事なのか?というのを理屈ではなくちゃんと学ばなければならない、とつくづく思い知った。本当に、それについては人並み以下程度のものしか持ってない

コメント

繭

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索