▼集団で介護者が一気にやめた事件が昔あったそうで、介護者ノートを見る限りでは私も辛い時にはやめる側の言い分にかなり傾いていて、でも落ち着いてくると社会人の人の言葉が結構のみこめた。辛い時は内側にこもっていくから思考回路が完結してしまう。厳しい言葉を受け止める余裕もなくて、後になってわかっていくものなんだと思った。私は冷たい人間なのかもしれないけどっていうのが延々続き、でもやっぱり辛いんでやめたいですというところに一様に帰結する。私かわいそう、では何もならないからそこから一歩進んで欲しかった、という社会人の言葉は責めではなく、でもやっぱり耳に痛いだろうし最後までお互いの言い分は平行線をたどっていた。その人と一回話したいが電話が常に留守電で最近介護にも入っていないのには複雑な心境…。
▼いくら気持ちを伝えようが、結局相手がそれをどう受け止めるかに尽きてしまうという私の思いこみ、介護者に色々いるのと同じように相手にも勿論矮小な人だっているわけで、またいくら頭ではわかっても介護者が離れていく事への感情的な反応についてはどうしようもない部分もある。難しい。続けるか否かにもこちらの決定権はあると思うけど、理由や思いをふりしぼったとしてそれがどこまで本人に受け止めてもらえるか、またどこまで自分の私情を理由にしていいか、という問題。やめたいからやめますっていうのはおかしいけど、大体みんな多かれ少なかれ浮き沈みしつつ悩んでいるわけで…。わかってもらえなきゃそれまでよって、ある時点からはわりきっていいのだろうか
▼でもグループを離れた人で、円満に離れた人は少ないような…遠方への引越しとか出産とかでない限りは。「サークルやバイトやと言うが、誰かの生活を支えているという意識が皆低すぎる、薄情ではないか」と言ったそうで、悔しい気持ちはわかるけどそればっか言わないでよーという本音もある。だからといってそう一方的になる当人を責める、ってわけじゃないが…この中間のとりかたが一番うーんと悩んでしまう問題。
▼個人個人のペースで関わるという事は理想だし良いように聞えて、実は結構きわどい気がする。嫌々介護してたら相手にそれが伝わっていい関わりができないから、というのはいかにも正論でまた理想でもあろうが、なんか正論が隠れ蓑になってないか?ってのと、枠が埋まらない時にはそういう理想の状態で続ける事もできるわけはなく、結局仕方なく一ヶ月何枠も入る人が出てくる。
▼本音をもっと交わしたい。「本音」=その人が口に出来ないマイナス意見というような等式が無意識のうちに自分の中には出来上がっていて、そうではなくその人の言葉として真に伝わってくる何かがほしいというか。介護者ノートにはそりゃあいい事を書かざるをえない。本人も見るから。だけどあの騒ぎの当時から読んでいくとだんだん内容が当たり障りなくなってない…?再び起こる事への恐れなんだろうか
▼色々聞きたくてもままならない、人は集まらない互いの顔すら知らない。こういう時どうしたらいいの?って相談にも、ああ難しいんだよねえー…とか社会人はやり過ごし方が上手いとか、そう困ったように笑われるだけでなあなあになってしまった
▼当初のウェルカムな雰囲気に反して、だんだんとそこを離脱する事を許さないような空気にとりこめられていく、それが不本意という話を彼とした。
▼あの家で一番ストレスたまってんのがペットの犬、という感情移入の仕方をしている時点でもう…。でもいくら自分の気持ちにそぐわなくても、受容というのをしなきゃならんのかなあと思うと…ああ大変だな…とつくづく思ってしまう。批判的に見てもいいけど、それを相手に目線を合わせ直してどう表出するかの問題?
▼結局心理学のOK牧場の法則とかいうやつで、相手もNO自分もNOみたいな…やはりたまにそこに陥る。誰かが風邪のためかわりの人いませんかと言われておいおい風邪かよ!自己管理は?と非難がましく思ってしまう私の心のありかたが問題なわけで、本当ならフォローしあえるのが望ましいんだけど…。要は話し合いをしましょうよという事なんだけども…。

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繭

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