二ヶ月ぶりに大阪で介護の日。色々と考えようと思って先月は休ませてもらった。グループの人に理由を訊かれるもお茶を濁すような感じの答えを返していたのだが。だけど結局何もまとまらなかった。
自分は今後続けていきたいのか?それにはなかなかイエスと言えないところがある。少なくとも仕事を始めたなら休みの間にあそこに行くのは辛い。勉強のため、何事も経験、そういうのでいつまで続くか…と自問する。
かなりの躁状態だった五月に参加を決めたのが良くなかったのかもしれない。判断能力鈍ってたし自分の許容量も関係なくどんどん世界を開拓しようとしていたし、と言い訳してみても。結局秋頃なんか吐いたりしてたしなあ、行くの嫌すぎて。何だそりゃって話だが。

毎回起きる諍いについて(この日はそれほどひどくはなかったが)既に辞めた人に聞くと「そんなんいつもの事やん」と返されたのだが、それが一番ネックになっている。そこで問題なのが、家族の人やCさんのどちらの立場に立つ事もなく、目の前の事を自分自身の方に引き寄せて受け取ってしまう事。
勿論事情や心情を汲むという事を全くしないわけでもないが、「それを私が見るのが辛いから」という自分を中心に置いた理由で、ここに来るのが気が重くなってしまう。何故そんなきつい思いをするために来なければならないのか…という思いが正直言って根深くある。叩いたりしてるのを見た日には余計に。
他所の家なので、初めは色々と受け入れにくい事もありそれに関しては何とかなってきたが、その一点だけはどうにもなりそうもない。自分を守ろうという思いから出るこのような反応を、正当化したいような、しかしもっと相手側に寄り添った感じ方ができるしそうすべきではないか?というような、両方の見方がありつつも、まだ自分は前者の方が圧倒的に強い。

正直、物理的な距離のせいもちょっとあるんだけどねえ。やっぱり片道二時間はなかなか遠い。電車賃が出るとかいう話があったが立ち消えになったのだろうか。しかし同時にその距離に救われている部分もあり何とも言えない。

そんな事を思いながらもう一つ何がしんどいかというとやっぱりグループの人達の事なんだよなあ。
他の男性グループなんかはもっとフランクな感じでやってるのに、何でうちはいかにも優等生的な人が揃っているのだろうか。相手の本心が見えなくて(と私が言えた義理でもないが)いつも困惑する。
こういう事をするのって美しい面や良い事ばかりではないはずなのに、そのもう一方の面をなかった事にしている感じが凄くあって抵抗を感じる。一方の側面しか認めないのは不安に感じるし居心地が悪い。他の人らがそれを感じないなら仕方ないが。まああの場で相談しようなんて思ってないけど…。やっぱり二月あたりの修羅場が今残っている人らのトラウマのようになっているのだろうかなどと考えてもみる。しかしだったら尚更ではないのかとも。

後ろ向きな事ばかり言いましたが、今後どのように向き合っていくのかは自分の課題として常に頭に置いておかないといけない。大学の先生にも相談してみたいなあ…でも辞めた人が既に相談してるんだよな…同じ話聞かせていいものか。
心を開けない自分にも大きな問題があるんだけどね…別にそういう生き方も構わないと、あえてそれを選んでいるのだと以前は思ってたけど、やっぱり日常生活であちこち支障が出てくるわ…。

ちなみに今回は二ヶ月空いて大丈夫だろうかと思ってたが、意外にきちんと覚えていたどころか技術的な面でも結構向上したんじゃないかと。ヘルパー講習でやった事を活かせましたよ。手際よくやった方がお互いのために良いし、筋肉痛もそれほどなくておおっと思いました。
あとの問題は精神的な距離だな…。

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繭

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