いつか慣ついていた猫は お腹すかせていただけで
2004年1月14日私がそれ以上のものを求めるのは贅沢というものかもしれないが。
歌の歌詞から引用したのだけど、「懐く」じゃないのかなこれ。まあいいか。
昨日のゼミでの発言が褒められ、ちみっと嬉しくなる。やっぱり出席するからには出来のいい生徒だと私も思われたいようだ。実は見掛け倒しだったなんて後で言われないように頑張らないといけない。
私が一番喋るのはゼミ内だなあとふと思う。雰囲気良いしね。人数も少ないし。あとゼミだし積極的にいかねば…という意気込みの違い。
「このお茶美味しいですねー」と言うと「それはもう一杯淹れろという意味か?なるほど上手いなー」と笑いながらおかわりを淹れて下さるのだった。そんな積もりで言ったんじゃないっす先生!(笑)こうして互いに突っ込み突っ込まれつつ、でも講義は割と真面目にやってます。
今学期最後だったしなあ…卒論テーマ決めやらねば。
昨日の夜学校から帰ってきてから妙に体が重く。気分も重く。試験期間だというのに何もせず横になる。いつの間にか朝になる。
そのままの姿勢で視界に入るテレビの時刻が9:01、9:02、9:10、9:20…ああどんどん過ぎてくなあやばいなあ。仕方なく何とか起きて学校へ。大幅遅刻。
水曜一限が今日でやっと終わる。ああ終わった終わった…これでもう朝起きたくないなどと言わなくて済む。まだレポート十枚が残っておるけど…どうするよ。と言いながらあまり爽快感はない。高校卒業の日に感じた後悔や無力感を薄めたのに似ている。
最後に一人一人スピーチ。何を言ったか覚えていない。
終わる際に先生に「もう半歩出て周りと○○さんの考え方、とらえ方などを分かち合って下されば…と願います」などと書かれてしまう。しかし私はその分かち合うという事をあまり信じていないのだが。
…って咄嗟にそういう考え方しちゃうでしょ。もうそんな不毛なのはやめい!
でもねえ…まあ他人に希望を持てなくなった時点で終わりなのだろうけど、分かち合おうとしてそうできなかった事しか今までには…どこまで諦めないでいればいいのだろうか、そういられるのだろうか。すぐ息切れする自分にそれができるのかねえ…。
ついでに上のは本文を自分で書き直して載せたが、本文は助詞の使い方がおかしく「周囲に分かち合える人が現れたなら」とも取れる文章だった。先生の真意はどっちか、って初めに書いた方に決まってるか。
みんなこの講義で進歩したって言ってるなあ…。表向きかもしれないが(他クラスの人がこの先生を酷評していたので…まあ合う合わんの個人差があるから何とも言えないが)私は何というか、人と話す上で以前より相手を選別するようになってしまったのだが…壁ばかり厚くしてしまってな…。
普段の私は随分冷たい人に見えるらしい。話してみると意外にそうでもなかったと言われたりするのだが、冷たいのを装っている部分も幾らかあるだろうし元々の顔つきのせいもあるし、または内側から滲み出すものが周囲にそういう印象を与えているのでは?とも思う。
上の講義でも感情をぶちまけるような人は多くて、人前で臆面もなく泣いたり、嬉しい・悲しい・寂しい、そういうのを隠す事なく表現したりしている。
私にはそれが一切ない。その辺ができれば周囲との距離も近付くのかもしれないが時には変な自意識が邪魔をして時には無意識にそれを避けてしまって、できない。感情が平板だと自分でも思う。外に見せまいと意識するだけでなく、感情の起伏そのものがあまりない事も多い。見せたくない場合と、見せたいがどうしたらいいかわからない場合と。
それには幾らかは環境が関係していると思う。自分で自分の素直な感情に冷笑を付与しておかないとおさまりが悪いというか。嬉しい時素直に嬉しがる事はできるようになってきたが(っていうのも変な話だなあ)、その他はなかなか。
でもたまに剥き出しにしたくなるんだけどな、と書く端から冷笑しそうで危ない。その辺を回復したい、しかしどうしたら良いんだろうと途方に暮れる。
歌の歌詞から引用したのだけど、「懐く」じゃないのかなこれ。まあいいか。
昨日のゼミでの発言が褒められ、ちみっと嬉しくなる。やっぱり出席するからには出来のいい生徒だと私も思われたいようだ。実は見掛け倒しだったなんて後で言われないように頑張らないといけない。
私が一番喋るのはゼミ内だなあとふと思う。雰囲気良いしね。人数も少ないし。あとゼミだし積極的にいかねば…という意気込みの違い。
「このお茶美味しいですねー」と言うと「それはもう一杯淹れろという意味か?なるほど上手いなー」と笑いながらおかわりを淹れて下さるのだった。そんな積もりで言ったんじゃないっす先生!(笑)こうして互いに突っ込み突っ込まれつつ、でも講義は割と真面目にやってます。
今学期最後だったしなあ…卒論テーマ決めやらねば。
昨日の夜学校から帰ってきてから妙に体が重く。気分も重く。試験期間だというのに何もせず横になる。いつの間にか朝になる。
そのままの姿勢で視界に入るテレビの時刻が9:01、9:02、9:10、9:20…ああどんどん過ぎてくなあやばいなあ。仕方なく何とか起きて学校へ。大幅遅刻。
水曜一限が今日でやっと終わる。ああ終わった終わった…これでもう朝起きたくないなどと言わなくて済む。まだレポート十枚が残っておるけど…どうするよ。と言いながらあまり爽快感はない。高校卒業の日に感じた後悔や無力感を薄めたのに似ている。
最後に一人一人スピーチ。何を言ったか覚えていない。
終わる際に先生に「もう半歩出て周りと○○さんの考え方、とらえ方などを分かち合って下されば…と願います」などと書かれてしまう。しかし私はその分かち合うという事をあまり信じていないのだが。
…って咄嗟にそういう考え方しちゃうでしょ。もうそんな不毛なのはやめい!
でもねえ…まあ他人に希望を持てなくなった時点で終わりなのだろうけど、分かち合おうとしてそうできなかった事しか今までには…どこまで諦めないでいればいいのだろうか、そういられるのだろうか。すぐ息切れする自分にそれができるのかねえ…。
ついでに上のは本文を自分で書き直して載せたが、本文は助詞の使い方がおかしく「周囲に分かち合える人が現れたなら」とも取れる文章だった。先生の真意はどっちか、って初めに書いた方に決まってるか。
みんなこの講義で進歩したって言ってるなあ…。表向きかもしれないが(他クラスの人がこの先生を酷評していたので…まあ合う合わんの個人差があるから何とも言えないが)私は何というか、人と話す上で以前より相手を選別するようになってしまったのだが…壁ばかり厚くしてしまってな…。
普段の私は随分冷たい人に見えるらしい。話してみると意外にそうでもなかったと言われたりするのだが、冷たいのを装っている部分も幾らかあるだろうし元々の顔つきのせいもあるし、または内側から滲み出すものが周囲にそういう印象を与えているのでは?とも思う。
上の講義でも感情をぶちまけるような人は多くて、人前で臆面もなく泣いたり、嬉しい・悲しい・寂しい、そういうのを隠す事なく表現したりしている。
私にはそれが一切ない。その辺ができれば周囲との距離も近付くのかもしれないが時には変な自意識が邪魔をして時には無意識にそれを避けてしまって、できない。感情が平板だと自分でも思う。外に見せまいと意識するだけでなく、感情の起伏そのものがあまりない事も多い。見せたくない場合と、見せたいがどうしたらいいかわからない場合と。
それには幾らかは環境が関係していると思う。自分で自分の素直な感情に冷笑を付与しておかないとおさまりが悪いというか。嬉しい時素直に嬉しがる事はできるようになってきたが(っていうのも変な話だなあ)、その他はなかなか。
でもたまに剥き出しにしたくなるんだけどな、と書く端から冷笑しそうで危ない。その辺を回復したい、しかしどうしたら良いんだろうと途方に暮れる。
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